更新日: 2024年6月12日
空海は遣唐使として海を渡った~特例尽くしで遣唐使となった31歳の空海は遭難、漂着の末、陸路2400km進み長安へ!
当初、第16次遣唐使節団に入っていなかった空海。空海が遣唐使となったのは、特例に次ぐ特例を重ね留学僧として認められた結果でした。異例に特例、天候も重なり、まるで運命かのように空海が長安へたどり着いたのは、空海が31歳の時でした。
目次
第16次遣唐使節団が、難波を出港するも難破
遣唐使の派遣は630~894年まで行われた国家事業で、期間中20回(実際に入唐したのは16回)行われています。目的は唐の先進的な技術や政治、文化や仏教を学び、国に持ち帰ること。毎回複数の船が派遣されており、各船には10名前後の留学生や留学僧(るがくそう)が遣唐使として参加していました。
第16次遣唐使節団には、最澄がいた
朝廷は801年、第16次遣唐使節団の派遣を正式に決定します。803年4月16日、4隻の遣唐使船が難波(なにわ)(現在の大阪湾)を出港しました。大使は藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、副使は石川道益(いしかわのみちます)で、比叡山(ひえいざん)の最澄(さいちょう)、興福寺(こうふくじ)の霊仙(りょうせん)、貴族の橘逸勢(たちばなのはやなり)も参加していました。
暴風雨に見舞われ、遣唐使船が沈没
4月16日に難波を出港した遣唐使船団は、国内の港に立ち寄りながら筑紫大津浦(つくしのおおつうら)(現在の博多湾)を目指しました。しかし4月21日、暴風雨に見舞われ難破します。最澄や橘逸勢、霊仙が乗った船はなんとか筑紫に到着しましたが、船は損傷して航行不能となり死傷者も出てしまいました。このまま外海に出ることはできないため、渡航は一時中断。筑紫にとどまり、船舶の修復や人員・物資の補充が行われることとなりました。
死者の出た船に乗っていた留学生や留学僧は再乗船できないことになっていたため、人員の追加も必要になってきます。改めて留学生と留学僧の2次募集が行われることとなったのですが、これに応募したのが空海だったのです。
なぜ空海が、遣唐使の2次募集の応募できたのか
山林修行や経典研究に明け暮れていた空海にこの情報を教えたのは、伯父の阿刀大足(あとのおおたり)ではないでしょうか。彼は伊予(いよ)親王の侍講(家庭教師)として中央政府に近い場所にいましたから、遣唐使節団の状況を知ることはできたでしょう。唐に渡るのは命懸けですし、もともと空海の親族は彼が仏教の道に進むことに反対しています。それでも2次募集の情報を伝えたということは、空海の熱意を認めたからかもしれません。
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