更新日: 2024年6月13日
東寺は空海が嵯峨天皇より賜った寺~国立寺院だった東寺を、空海が密教の根本道場に再編した
空海が50歳の時、嵯峨天皇より東寺を下賜されることになりました。空海は東寺を密教の「根本道場」と位置付け、寺院の在り方までも変えていきます。しかし、なぜ空海が下賜されたのか、その理由は未だ分かってはいません。
空海は東寺を嵯峨天皇より下賜される
平安京に遷都した桓武(かんむ)天皇は、羅城門(らじょうもん)(平安京の正門)の左右に東寺と西寺の建立を命じました。国家鎮護を目的とした国立寺院(官寺(かんじ))で、796年ごろから造営が始まったとされます。もともと官寺だった東寺が真言宗の寺になった経緯には、空海と嵯峨天皇が関係しています。
東寺の建立は工期の途中から空海が指揮を執ることに
嵯峨天皇は823年1月、空海に東寺を下賜しました。実はこの時、東寺はまだ建設中。東寺の本堂である金堂は完成していましたが、それ以外の工事は進んでいませんでした。空海は工事を引き継ぐ形で東寺に入り、境内の中央に密教の教えの中心となる講堂を建立しました。
空海は、東寺に密教の最高仏である大日如来(だいにちにょらい)を祀り、仏像を並べて曼荼羅の世界を視覚的に表現する「羯磨曼荼羅(かつままんだら)(いわゆる立体曼荼羅)」を配置しました。さらに空海は、五重塔を建立して寺観も整備します。東寺を「密教の根本道場」と位置付け、「国家鎮護の官立寺院」と「密教の教え」を両立させたのです。
空海は東寺で寺院のあり方を改革した
さらに空海は、東寺の寺と僧侶のあり方も改革しました。平安時代初期の寺院はさまざまな宗派を学ぶ「諸宗兼学」が一般的だったので、一つの寺院に複数の宗派を信仰する僧侶が在籍していました。しかし空海は、「東寺の僧侶は真言宗僧に限定してほしい」と要請します。この考え方が、現在の「一つの寺に、一つの宗派」という寺院のあり方につながっていきました。
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