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薬子の変で乱れた世を平穏に~薬子の変後、空海は鎮護国家の修法を行い嵯峨天皇から信任を得る

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年6月11日

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薬子の変で乱れた世を平穏に~薬子の変後、空海は鎮護国家の修法を行い嵯峨天皇から信任を得る

平安時代に起こった薬子の変。90年で7回という度重なる遷都の末に起こったのが薬子の変でした。疲弊した国家財政と民衆を救い、平穏にしなければいけないという強い思いは、嵯峨天皇も空海も一緒だったようです。

薬子の変とは

文化人であり書の達人として知られる嵯峨天皇は、同じく書の達人であり密教の先駆者である空海を重用し密教に帰依しました。二人が親交を深めるきっかけとなったのが、平城(へいぜい)上皇の起こした「薬子の変」です。

皇位継承を巡って、薬子の変が発生

病気を理由に譲位した平城上皇でしたが、病が癒えたこともあり半年後には政界に復帰します。平城京に移動し、上皇として政務を執り行ったのです。このため中央政府には「平安京の嵯峨天皇」と「平城京の平城上皇」という2人の為政者がいる状態となり、「二所朝廷(にしょちょうてい)」と呼ばれる混乱が発生してしまいました。

810年9月6日、平城上皇は「平安京を廃して平城京に遷都する」と宣言します。自ら挙兵しますが、早々に鎮圧され企みは失敗に終わりました。

薬子の変後の嵯峨天皇の使命

平城上皇の愛妾・藤原薬子(ふじわらのくすこ)や、薬子の兄・藤原仲成(ふじわらのなかなり)らが処罰されたことから「薬子の変」と呼ばれますが、首謀者は平城上皇であり原因は同母兄弟との権力抗争です。

平安時代初期には皇位継承にまつわる政権争いが頻発しており、中央政府も安定していませんでした。また700年代に立て続けに行われた遷都により、民衆が疲弊していました。嵯峨天皇には、国家の安定と民衆の不安鎮静が求められていたのでした。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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