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書家としての空海と橘逸勢の交流

書を通して、空海の人生に大きな影響を与えたのは橘逸勢(たちばなのはやなり)です。最澄(さいちょう)との交流が始まったのは帰国後に上京してからですが、橘逸勢と知り合ったのは出国前。実は空海と橘逸勢は、同じ船で唐に渡った留学生仲間なのです。「書」という共通点を持つ留学生仲間、橘逸勢との交流が、空海と嵯峨(さが)天皇とを結びつけていくことになります。

橘逸勢は空海より9歳年下。803年、第16次遣唐使節団に参加して最澄らとともに唐を目指すが国内で遭難し、太宰府(だざいふ)で待機していました。約1年後、追加募集の留学僧として空海が太宰府に到着。空海と橘逸勢は同じ第1船に乗って唐へ向かうことになりました。

空海と橘逸勢の留学中の書に関するエピソード

貴族と無名の留学僧という身分の違いはあれど、同じ環境で寝食を共にすれば自然と親しくなるもの。2人は留学中も交流を深めていたようです。

橘逸勢は「言葉が分からなくて勉強が進まない」と嘆くほど中国語が苦手で、長安(ちょうあん)ではあまり語学力を必要としない琴と書を専攻しています。留学前から語学堪能だった空海は言葉の面で橘逸勢をサポートすることもあったでしょうし、能書家として書の話をすることもあったでしょう。

空海の『三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)』(空海が唐で密教の秘蹟を書写した小冊子)には、橘逸勢の筆跡と思われる箇所が存在します。空海は書写にあたって写経生を雇っているのですが、普段から親しくしている橘逸勢にも声をかけたのでしょう。橘逸勢も空海の願いを快く聞き届けたと思われます。

空海と橘逸勢との関係

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空海は、橘逸勢を介して皇室との人脈を得る

806年、空海と橘逸勢は同じ船に乗って帰国しました。橘逸勢は、空海を太宰府に残して入京しています。空海にとって幸運だったのは、彼が名門貴族出身だったということです。藤原氏に押されてはいますが、橘氏は皇族を祖とする氏族。空海の帰国当時、橘逸勢のいとこ(父の弟の娘)・嘉智子(かちこ)は賀美能(かみの)親王(後の嵯峨天皇)に仕えていました。

嵯峨天皇の即位は809年4月で、嘉智子の入内(じゅだい)が同年6月。空海の上京許可が出たのもちょうどこの頃です。空海の上京許可に橘逸勢が関わったという記録はありませんが、橘逸勢を介してつながった嵯峨天皇とのパイプが何らかの影響を与えた可能性はあるかもしれません。

皇室と橘氏の関係

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書家としての空海と嵯峨天皇の漢詩がつなげた交友

空海は能書家でもあり、優れた漢詩作者でもあります。彼が活躍した平安時代初期は文章経国(もんじょうけいこく)思想(漢詩文をはじめとした文学の隆盛が、国家の平和と安定につながるという考え)が重んじられていました。特に嵯峨(さが)天皇は唐風文化や漢詩を好み、『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』といった勅撰(ちょくせん)漢詩集も編さんしています。この風潮は、能書家で漢詩や文章作成が得意な空海の追い風となりました。

空海が嵯峨天皇に送った漢詩

嵯峨天皇と空海は、書道だけでなく漢詩という分野でも親交を深めていきます。二人の交流を表す漢詩として知られるのが、空海が嵯峨天皇に送った「献柑子表(こうじをけんずるのひょう)」です。
これは乙訓寺(おとくにでら)の別当(べっとう)を務めていた空海が、嵯峨天皇に柑橘(かんきつ)の実を献上した際に添えた短い漢詩です。柑橘の実の色や数にちなんで、嵯峨天皇の健康長寿を祈る内容となっています。

嵯峨天皇が空海へ送った漢詩

嵯峨天皇が詩作した「与海公飲茶送帰山一首(かいこうとちゃをのみやまにかえるをおくるいっしゅ)」は、久しぶりに離宮(現在の大覚寺(だいかくじ))を訪ねた空海と歓談し、高野山に帰る空海をいつまでも見送ったという内容です。空海と嵯峨天皇の交友と厚い友情がうたわれています。嵯峨天皇の離宮として造営され、最先端の文化の発信地となった大覚寺で、空海は嵯峨天皇との親交を深めていたのです。

『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!

真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。

1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~

・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う

2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~

・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する

3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~

・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う

4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~

・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物

【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)

広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。

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