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南都六宗と最澄、空海の関係~南都六宗と対立し密教の基盤を固めた最澄と、南都六宗と友好関係を築いていた空海

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年6月10日

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南都六宗と最澄、空海の関係~南都六宗と対立し密教の基盤を固めた最澄と、南都六宗と友好関係を築いていた空海

平安時代初期の仏教界において、南都六宗(奈良仏教)は強い勢力を持っていました。その中でなぜ朝廷は、密教を受け入れたのでしょうか。当初、まだ新興勢力にすぎなかった密教の基盤を固めたのは、最澄でした。

南都六宗と距離を置きたい桓武天皇

奈良時代の日本では、南都六宗と呼ばれる六つの宗派(三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう))が主流でした。ただこの時代の仏教は朝廷との結びつきが強く、法相宗の僧侶・道鏡(どうきょう)が称徳(しょうとく)天皇と結託し、自ら即位しようとした事件(宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託事件)も発生しています。

南都六宗との距離をどうやって置いたのか

仏教の政治介入を問題視した桓武天皇は、南都六宗と政治を分離します。長岡京(ながおかきょう)遷都の際、有力寺院が平城京(へいじょうきょう)から移転することを認めず、宗教と政治の間に物理的な距離を置いたのです。宗教・学問としての仏教は保護しますが、政治には関与させないという姿勢を見せたのです。

桓武天皇は南都六宗が気に入らなかった?

※拡大できます

当時の平城京の周辺には、南都六宗の中心寺院が点在していました。やがて長岡京への遷都が行われ、南都六宗は取り残されていきました。三論宗・成実宗・倶舎宗の三つの宗派は現存していませんが、今も各寺院は奈良市に残っています。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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