更新日: 2024年6月5日
空海が死を迎えるまでにしたこととは?~最晩年まで密教の基盤強化のために活動した空海は、弟子たちに指示を残し62歳で入定した
空海が入定(にゅうじょう)(精神を統一し、深く瞑想すること)したのは、62歳の春でした。入定とは、高僧の死についても表すことができる表現です。空海の死因は、病に直結するものではありませんでした。空海は自ら入定する日を決定し身辺整理だけでなく、密教の更なる大きな基盤を作って終活を行っていました。
空海は病により死を意識した後、身辺整理に取り掛かる
831年5月、空海は病にかかりました。大僧都(だいそうづ)(僧侶に与えられる位階)を辞職させてほしいと願い出ていることから、よほど体調が悪かったのでしょう。この頃から空海は「自分亡き後」について考えるようになったようです。
832年の秋、空海は長らく拠点としてきた東寺を去り、高野山に入りました。活動の集大成として、「残された弟子たちのための終活」を始めたのです。
晩年まで真言密教の確立に力を注いだ空海
高野山に戻った空海が手掛けたのが、後七日御修法(ごしちにちみしほ)の実施です。宮中では、正月(1月1日~14日)に神道と仏教による年始行事を行っていました。空海は仏教行事の際に密教の修法を提案します。834年12月19日に奏上し同29日に許可、翌年1月8日に自らが導師となって修法を実施するという、異例の速さで実現させました。
また835年1月22日には「真言宗から毎年3名、官度僧(かんどそう)を出すことを認める」という許可を取り付け、2月30日には金剛峯寺(こんごうぶじ)が定額寺(じょうがくじ)(官寺に準じる扱いを受ける国家公認の寺院)と定められました。最晩年まで、真言密教のさらなる基盤強化のために尽力したのです。
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