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空海は高野山開創のため、寄付を募る
高野山は和歌山県北東部に位置する山地で、標高は約900m。山頂付近には八つの峰に囲まれた平坦な土地(盆地)が広がっており、この盆地全体を高野山と呼びます。空海が境内と定めた面積はおよそ3000haと推測されており、これほどの広さの山林を切り開いて寺院を建立するには莫大な人手と金銭が必要でした。
高野山開創のため、空海は奔走
空海が願い出れば、嵯峨天皇や貴族たちは資金援助をしてくれたでしょう。しかし、空海が高額の資金援助を受けとったという記録はありません。代わりに残されているのが寄付を募る手紙です。空海は高野山を下賜されたあと、先遣隊として弟子の実慧(じちえ)と泰範(たいはん)を高野山に派遣します。空海自身は都に残り、資金繰りに奔走しました。
空海の資金調達方法は
空海は高野山開創費用を寄付金で賄おうと考えていたようで、『高野雑筆集』(空海の書簡類の集成)には、紀伊国(きいのくに)在住の有力者に「私の遠い祖先である太遣馬宿禰(たけまのすくね)は、紀伊国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の分家筋と伺っています。同族のよしみで高野山開創を支援していただけないでしょうか」と懇願した文が収録されています。空海は涓塵(けんじん)(ごくわずかなこと。わずかな金額を多くの人から集めること)が大事であると説いていますが、少額の寄付を多くの支援者から集めるやり方は現在のクラウドファンディングの仕組みと似ているかもしれません。
先に高野山に入っていた実慧と泰範から「一軒の草庵(そうあん)が完成した」という連絡を受けた空海は、818年11月に高野山に入ります。空海はそれ以降、都と高野山を行き来しながら高野山の全体構造を決め、高野山全山開創の指揮を執りました。最澄が拠点とした比叡山は、都から比較的近いですが高野山は都と100kmほど離れています。行き来するだけでも大変だったことでしょう。
空海の高野山金剛峯寺に残る 神仏習合
空海は高野山の中心に、大日如来(だいにちにょらい)を象徴する多宝塔(根本大塔(こんぽんだいとう))を建立しました。金堂(高野山全山の総本堂)をはじめとした多くの建物が集中する壇上伽藍(だんじょうがらん)で胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)を表現、弘法大師御廟などのある奥之院(おくのいん)で金剛界(こんごうかい)曼荼羅を表現しました。
高野山と丹生都比売神社の特別な関係
高野山というと「仏教」のイメージが強いですが、ふもとには丹生都比売(にうつひめ)神社が建立されています。これは「高野山はもともと丹生明神(にうみょうじん)の神域であり、神様からいただいた土地に寺を建てさせていただいた」という空海の思いに基づくものです。山岳(神々のいる場所)で修行をする密教は、自然信仰を基盤とする神道に通じる部分も多く、自然と神仏習合がなされたようです。
現在も高野山と丹生都比売神社は密接な関係にあり、修行を終えた僧侶が神社に礼拝する行事が執り行われています。大正の広重と言われ活躍した鳥瞰図絵師・吉田初三郎(よしだはつさぶろう)が描いた高野山図絵の山中には、塔頭寺院が点在しており、山麓には丹生都比売神社が描かれています。
空海の入定後に、高野山金剛峯寺は完成した
高野山は険しい山の上にあり、資材を運ぶのも容易ではありません。資金面でも困難が多く、建設はなかなか進みませんでした。空海自身もたびたび勧進(かんじん)を行なっていますが、金銭的に潤沢とはいかなかったようです。832年、高野山で万灯万華会(まんとうまんげえ)を修して伽藍(がらん)の完成を祈願していますが、高野山の中核となる壇上伽藍が完成したのは空海入定後、890年代に入ってからです。
現在では高野山金剛峯寺と呼ばれていますが、高野山は山の至るところが境内という「一山境内地(いっさんけいだいち)」という考えに基づき、高野山全体が境内とされてきました。高野山と金剛峯寺は同義であり、高野山全体が金剛峯寺とされています。
空海の高野山金剛峰寺は、一時は荒廃したこと時期も
空海入定後、高野山は落雷による火災などによりほとんどの建物を焼失しました。多くの僧侶が山を下りてしまい一時は荒廃しますが、白河上皇や鳥羽上皇、藤原道長などの寄付により復興します。現在、山内には117寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)(高野山全体を金剛峯寺の境内に見立てて山内に建立された子院)が存在し、そのうち51寺は宿坊(しゅくぼう)(宿泊可能な寺院)として広く一般に開かれています。
『スッと頭に入る空海の教え』6月13日発売!
真言宗の開祖であり今も「お大師さま」として多くの人から信仰を集める空海。天才であるが故に数多くの挫折や苦悩を経験しながら、当時まだ新興勢力にすぎなかった密教をいかにしてこの世に広めたのか、そこには現代にも通じる社会を生き抜くための知恵が隠されています。本書は、謎の多い空海の生涯と思想をひも解きながら現代社会を生き抜くための行動の指針や考え方のヒントを紹介していくものです。
1.空海の行動から見る教え~空海の処世術~
・四国の地方豪族出身の真魚(空海)が貴族の子弟が通う大学に入学
・官吏を目指し勉学に励むも儒教に興味が持てず大学を退学、出家
・西日本の霊場で山岳修行に励み悟りを開いて「空海」になる
・苦悩の末、大日経と出会う
・朝廷が派遣する遣唐使使節団の一員として唐へ向かう
・30日以上の漂流の末、福州に漂着。約2400㎞の道のりを経て長安へ。
・密教習得に必要な梵語を学び、中国密教の中心的人物である恵果阿闍梨から密教の全てを伝授され後継者と認められる
・「日本で密教を広めよ」という恵果の遺言を果たすため日本へ早期帰国
・朝廷との約束を破って帰国したため上京の許可が下りず筑紫に滞在
・最澄の執り成しもあり809年に入京が叶う
2.空海の考え方から見る教え ~空海の交渉術~
・南都六宗と距離を置きたい桓武天皇と最澄の活動により、密教布教の基盤が固まる
・「書」という共通点を持つ橘逸勢との交流が嵯峨天皇と結びつく
・薬子の変で乱れた国家を平穏にするため鎮護国家の修法を行ない嵯峨天皇から信任を得る
・早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の別当となり高雄山寺で最澄に持明灌頂を授ける
・自分の都合で密教の教えを求める最澄を許せず経典の貸与を拒否。2人の関係が途絶える
・都から離れた紀伊山地に位置する高野山を真言密教の修禅道場として開創する
・唐で学んだ最先端の技術を駆使して故郷に貢献。築池別当として満濃池の修築工事を完遂する
・嵯峨天皇より東寺を賜り国立寺院だった東寺を密教の根本道場に再編する
・さまざまな学問を学べる庶民のための学校、綜藝種智院を設立する
・密教の基盤強化のために病を押して活動し弟子たちに具体的な指示を残して入定する
3.空海が完成させた密教とは ~密教の教え~
・鎮護国家思想の学問から現世利益の仏教へ。これまでの仏教と空海が持ち帰った密教の違い
・密教の最終目標はその身のまま仏になること。正しく三蜜加持を行なえば即身成仏できる
・両手を合わせて印を結び仏と一体化して真実の言葉である真言を唱え仏の加護を得る
・密教を経典や注釈書だけで理解するのは困難なため大宇宙の本質を仏の配置で表現した曼荼羅で把握する
・仏の区分は如来・菩薩・明王・天の4種類。それぞれの仏の違いと特徴を知る
・護摩行は密教の修法の一つ。大日如来の智慧の火で煩悩を焼き払う
4.弘法大師の教えを感じる場所 ~弘法大師信仰~
・最澄に遅れること55年、空海がとうとう弘法大師になる
・人智の及ばない出来事から人々を守る密教の教えと弘法大師・空海への感謝が、弘法大師信仰として定着
・修行のための巡礼路だった「四国辺路」が一般庶民の間に広がり「四国遍路」として定着する
・空海の足跡をたどりながら自分を見つめ直す。全長約1400㎞の四国八十八ケ所巡り
・四国遍路をしたいが四国まで行けない人のために全国各地で四国霊場を模した「地四国」が開かれる
・水にまつわる伝説が多い?全国各地に点在する弘法水伝説と開湯伝説
・「うどん県・香川」の産みの親は空海だった?空海が唐から持ち帰ったと伝わる食べ物
【監修者】吉田 正裕(よしだ しょうゆう)
広島県廿日市市出身、真言宗御室派大本山大聖院第77代座主。2008~2018年総本山仁和寺本山布教師。2018~2022年総本山仁和寺執行長、真言宗御室派宗務総長。宗教事業にかかわらず、宮島、広島の地域活動、文化活動などを幅広く行なっている。
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