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【ヨーロッパの中世】ペストが猛威を振るいヨーロッパ人口の30%以上が死亡(14世紀半ば)

ペスト大流行のポイント

ポイント1.ペスト「黒死病」とも呼ばれる死の病
ポイント2.発生源は中央アジアとみられ、そこからヨーロッパ全土へ広まる
ポイント3.無力さを露呈した教会への不信感が、宗教改革の要因のひとつとなった

ペストがヨーロッパ中で大流行

1340年代、ヨーロッパでペストが猛威をふるいます。発病すると体中に黒い斑点ができて死んでいくことから、「黒死病」と呼ばれて恐れられた病です。

中央アジアで発生したというペストは、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを経て地中海沿岸地域へ伝わると、衛生環境の悪さも相まってヨーロッパ中に拡散。当時の医療では手の施しようがなかったため、人々は教会を頼ったが、患者に寄り添った聖職者も次々と感染して亡くなっていきました。

ロンドンやパリでは人口が半分に激減してしまいます。やがてロシアやエジプトにも広まり、ヨーロッパの総人口の3分の1が犠牲となりました。

地図の見方:ペストの発生源は中央アジアとされ、そこからコンスタンティノープルを経て地中海沿岸地域へと伝わり、ヨーロッパ全域に拡散。当時の人口1億1000万人のうち3000万人以上が犠牲に

ペストが宗教改革の一因に

そうしたなか、領主は生活レベルを維持するため、生き残った農民たちに重税を課します。その結果、各地で農民反乱が多発しました。

また、何もできない教会に対して懐疑的な見方がなされるようになり、宗教改革へとつながったのです。

ペストの大流行:その時日本は!?

建武の新政

後醍醐天皇は天皇親政をあるべき姿と考え、鎌倉幕府の倒幕計画を指示しました。その計画は2度も失敗しましたが、足利尊氏らが幕府を倒し、建武の新政が実現しました。

【ヨーロッパの中世】ルターの宗教大改革でプロテスタント(ルター派)が生まれる(16世紀~)

ルターの宗教改革のポイント

ポイント1.ローマ・カトリック教会はドイツなどで免罪符を売りまくった
ポイント2.ルタープロテスタントはローマ教会のやり方を批判し改革を訴える
ポイント3.プロテスタントの勤労の倫理観が資本主義の精神につながっていった

ルターのローマ教皇批判

ローマ・カトリック教会は14世紀頃から堕落と腐敗が進みます。

教皇レオ10世に至ってはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の修復費用をねん出するため、「これを買えば罪が消える」とうたった免罪符(めんざいふ)を発行する始末。特に多くの免罪符を売りつけられたのが当時多数の国家や都市に分裂していた神聖ローマ帝国で、主に農民がターゲットになりました。

これを痛烈に批判したのが神学者のルターです。ルターは「神の救いは教会ではなく聖書の教えにある」と主張。ローマ教会に破門されても意見を変えず、改革を訴え続けました。

地図の見方:宗教改革によって生まれたプロテスタントには、カルヴァン派に代表される勤労の倫理観があり、それが資本主義の精神につながった

ルター派によって宗教改革の波が広がる

ルター派は「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれ、カトリック派と対立。やがて内戦に発展すると、皇帝は1555年にルター派と和議を結び、両派の共存がはかられました。

この宗教改革のうねりは各地に広がり、イギリス、フランス、オランダなどに深く浸透していきます。そしてプロテスタントの勤労の倫理観が資本主義の精神につながったのです

ルターの宗教大改革:その時日本は!?

織田信長の躍進

尾張の大名織田信長が東海地方の有力大名今川義元を桶狭間の戦いで破り、全国にその名をとどろかせました。それを機に、信長は天下統一へと邁進していきます。

【ヨーロッパの中世】ビザンツ帝国の滅亡(1453年)

ビザンツ帝国滅亡のポイント

ポイント1.西ローマ帝国は短命に終わったが、ビザンツ帝国は1000年以上存続した
ポイント2.都のコンスタンティノープルはユーラシア屈指の経済都市だった
ポイント3.オスマン帝国によって難攻不落の都を落とされ滅亡する

ビザンツ帝国は一時地中海を再統一も

15世紀半ば、1000年以上にわたって存続したビザンツ(東ローマ)帝国の命脈は風前の灯となっていました。

ビザンツ帝国は395年のローマ帝国分割によって成立した帝国で、その名は都のコンスタンティノープル(現イスタンブール)の旧名ビザンティオンに由来します。西ローマ帝国は短命に終わりましたが、ビザンツ帝国は6世紀に旧ローマ帝国の西半分を奪還し、東地中海の制海権を確保するなど大きく成長。9世紀後半から10世紀にかけて最盛期を迎えます。

地図の見方:隆盛を誇ったビザンツ帝国も、オスマン帝国によって、1453年に打倒される。その歴史は1058年で終わりを告げた

ビザンツ帝国の強い経済力と独自の文化もオスマン帝国によってついに滅亡

ギリシア正教の総本山である都のコンスタンティノープルは、アジアとヨーロッパの交差点。ノミスマという金貨が流通し、交易が活性化したため、経済都市として栄えます

また、モザイク壁画に代表されるビザンツ様式の文化も注目に値します

しかし、そのビザンツ帝国も1202年の十字軍によるコンスタンティノープル占領や、オスマン帝国の勢力拡大によって次第に衰退。1453年にはオスマン軍の奇襲で首都が陥落し、ついに滅亡しました。

ビザンツ帝国の滅亡:その時日本は!?

応仁の乱が勃発

室町幕府の6代将軍足利義教の死後、幕府の権威は揺らぎ、1467年に守護大名らによる応仁の乱がはじまります。争いは11年も続き、戦国時代へとつながっていきました。

【ヨーロッパの中世】「タタールのくびき」を解き、モスクワ大公国独立へ(1480年)

モスクワ大公国の自立のポイント

ポイント1.ロシアの原型はノルマン人によってつくられた
ポイント2.モンゴル人による約250年の支配をイヴァン3世が解き放った
ポイント3.イヴァン4世の時代に領土を大きく拡張し帝国化していった

「タタールのくびき」を解く

現在、世界最大の面積を誇る大国ロシア。そのルーツは、9世紀にノルマン人が建国したノヴゴロド国とキエフ公国にあります

キエフ大公ウラディミル1世はビザンツ皇帝の妹と結婚し、ギリシア正教を国教化。13世紀半ば以降、チンギス・ハンの孫バトゥが建てたキプチャク・ハン国の支配下に置かれましたが(タタールのくびき)、1480年にイヴァン3世率いるモスクワ大公国が独立を果たします。

イヴァン3世はロシアを統一すると、国家の正統性を得るため、最後のビザンツ皇帝の姪と結婚。さらにビザンツ帝国滅亡後、ギリシア正教を受け継ぎ、ロシア正教会へと発展させます。

そして次のイヴァン4世は、東方へと領土を拡大していったのです。

地図の見方:ビザンツ帝国滅亡後、ローマ帝国の継承者となったのはモスクワ大公国。イヴァン4世の時代には東方へ領土を拡大し、ロシア帝国へと変貌を遂げていった

【ヨーロッパの中世】大航海時代の到来(15世紀)ヨーロッパの航海者たちが世界経済を大きく変えた

大航海時代到来のポイント

ポイント1.ポルトガルスペイン大航海時代の先駆けとなります。
ポイント2.キリスト教の布教熱、アジアへの興味、香辛料などが背景にありました。
ポイント3.大航海時代が進むにつれて、ヨーロッパの経済が世界規模になります。

大航海時代は勇敢な航海者が航路を開拓

15世紀、ヨーロッパの国々は次々とアジアやアメリカへと乗り出します。

ポルトガルは北アフリカのセウタ(現モロッコ)を占領し、ディアスが南アフリカの喜望峰に到達、さらにヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達して新航路を開きます。一方、スペインはコロンブスが大西洋を横断して西インド諸島に到達したほか、マゼランをモルッカ諸島に向かわせました。

ヨーロッパ諸国が海に乗り出した理由としては、キリスト教の布教の機運が高まっていたこと、香辛料(胡椒)の高騰で新たな交易路の開拓が求められたこと、アジアへの関心が高まっていたことなどがあげられます

新大陸では植民地建設が進められ、採掘された銀でアジアの香辛料などが購入されます。こうしてヨーロッパの経済活動は世界規模になったのでした。

地図の見方:ヨーロッパ各国が海に乗り出した理由はキリスト教の布教と香辛料、そしてアジアへの興味の3つである

【ヨーロッパの中世】絶対王政の確立(16~18世紀)近代国家の基礎となる主権国家体制

絶対王政確立のポイント

ポイント1.ヨーロッパの主権国家体制は、絶対王政による君主主権がはじまります。
ポイント2.フランスはルイ14世の時代に、絶対王政の最盛期となりました。
ポイント3.イギリスやドイツ、ロシアなども絶対王政の時代を経験しています。

絶対王政の代表格、ルイ14世が太陽王として君臨

近代国家のほとんどは国民主権となっていますが、初期には君主が絶対的権力をもって支配する絶対王政による君主主権が主でした

その絶対王政の代表格がフランスである。16世紀末、カトリックとプロテスタントが争うユグノー戦争が終わると、フランスでは王権の強化が進み、17世紀半ばにブルボン朝のもとで絶対王政の全盛期が到来。ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建築するなどして国王の権威を高め、「太陽王」として君臨します。

地図の見方:君主が絶対的権力をもって支配する専制的な政治形態を絶対王政といい、ヨーロッパでは18世紀までにその体制が定着した

絶対王政を極めた各国の王

イギリスは16世紀後半、イギリス国教会を確立したエリザベス女王がスペイン無敵艦隊を破り、重商主義政策を推進して国力を充実させました。

オーストリアは18世紀半ばにハプスブルク家マリア・テレジアが領土を維持し、国の地位を守りました。これと同時期、プロイセンはフリードリヒ2世のもと、軍の強化や進歩的な改革で列強入りをはたします。ロシアはロマノフ朝が絶対王政を確立し、南下して領土を拡張。エカチェリーナ2世はポーランドも領土に加えました。

絶対王政の確立:その時日本は!?

関ヶ原の戦い勃発

1600年、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いが起こります。徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍を破り、戦国時代が終焉に近づきました。

【ヨーロッパの中世】覇権国の争いと植民地争奪戦(16~18世紀)

植民地争奪戦のポイント

ポイント1.覇権国はスペインからオランダイギリスへと移り変わります。
ポイント2.無敵艦隊がイギリスに負けたことでスペインは没落していきます。
ポイント3.ヨーロッパ諸国は植民地獲得のために奔走し、互いに覇を競いました。

覇権国の誕生はスペインから

大航海時代、世界の覇権は次々に移り変わっていきます。

最初の覇権国はスペインです。南米をはじめ世界各地に領土を広げ、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペインは、1571年にレパントの海戦でオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取。さらに1580年には衰退したポルトガルを併合し、その植民地も獲得しました。

スペインは経済面でも銀山や毛織物市場を支配。押しも押されもせぬ世界最強の大帝国となったのです。

地図の見方:覇を競い合うヨーロッパ諸国は、世界中で植民地経営を行なった。そのため、旧植民地のなかには旧宗主国の言葉が現在も公用語として残っているケースがある

覇権国はオランダからイギリスへ

しかし、スペインは1588年にアルマダの海戦でイギリスに敗北。これ以降、スペインは衰退しはじめ、スペインから独立を果たしたオランダにとって代わられてしまいます。

17世紀、オランダは中継貿易などで経済的に急成長し、金融をも支配。南アフリカやインドネシアなどを植民地化し、新たな覇権国となりました。

しかし、そのオランダも3度の英蘭戦争でイギリスに敗北。18世紀にはイギリスがフランスとの北米大陸戦争を制して植民地帝国となったのです

覇権国争い:その時日本は!?

鎖国体制の成立

江戸幕府は外国とのつき合いを絶ちます。まずキリスト教を禁止し、次に日本人の海外渡航や帰国を禁止、さらに海外船の来航を禁止し、1639年に鎖国が完成しました。

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