更新日: 2024年2月2日
藤原隆家~中関白家としての没落から、大宰府での刀伊撃退まで
藤原隆家は、藤原道長の甥。藤原隆家は兄・伊周と道長の関白の座をめぐる争いに敗れ、大宰府の地に赴くも、その20年後に歴史の舞台に再び登場します。異民族襲来という未曾有の危機を退けたのが、花山法皇狙撃事件で左遷されていた藤原隆家だったのです。
藤原隆家の背景:中関白家・道隆の子 藤原隆家
藤原隆家の祖父・藤原兼家が亡くなり、正暦(しょうりゃく)元年(990)に、関白を譲り受けた藤原隆家の父・道隆は一条天皇に入内(じゅだい)させていた娘の定子(ていし)(藤原隆家の姉)を中宮(ちゅうぐう)につけます。
これは三后(皇后、皇太后、太皇太后)の地位に空きがなかったため、皇后の別名である「中宮」をわけて四后にするというものでした。
また、一条天皇の母である皇太后詮子(せんし)(道隆の妹)が出家すると、女性の准(じゅん)太上天皇の「女院(にょいん)」(東三条院)として特別な地位につけます。こうして藤原隆家の父・道隆は、自らの権威を高めていったのです。
父が関白となり、出世する藤原隆家
一方で藤原隆家の父・道隆は、兼家同様、自身の息子の伊周(これちか)(藤原隆家の兄)、藤原隆家らを出世させました。道隆の嫡男の伊周は、叔父の道長も抜いて21歳の若さで内大臣の座についています。あとは定子が一条天皇の皇子を産むのを待つばかりとなりますが、長徳(ちょうとく)元年(995)、道隆は43歳の若さで病魔に襲われ亡くなってしまいます。
隆家の兄・伊周はまだ若く、中関白家(なかのかんぱくけ)(道隆の一家)の栄華は唐突に終焉を迎えました。
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