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【東アジアの世界史】秦の始皇帝による中国統一(紀元前221年)

秦の中国統一のポイント

ポイントその1.古代中国では、群雄割拠の時代が500年以上続いてた
ポイントその2.中国初の統一王朝となったのは万里の長城を築いた始皇帝率いる秦
ポイントそ3.貨幣を統一したことが経済発展と中国の一体化につながる

秦の始皇帝による中国統一:戦国の世を勝ち抜いた秦

中国最古の王朝とされる殷の後、周(しゅう)が約250年間にわたり華北を支配し続けます。やがて周が衰退すると、中国は前770年に春秋・戦国時代に突入しました。

群雄割拠のなかから台頭したのは秦(しん)、楚(そ)、斉(さい)、燕(えん)、趙(ちょう)、魏(ぎ)、韓(かん)の7国(戦国の七雄)。特に強大な力を誇ったのが秦で、王の政(せい)は東方の6国を次々と制圧、前221年に史上はじめて中国統一を実現したのです

最高権力者の座についた政は始皇帝(しこうてい)と名のり、政治改革を進めていきます。

地図の見方:戦国時代の中国は、EU(欧州連合)ができる前のヨーロッパのような状況だった。それを統一した秦が共通通貨を導入したことにより、民衆の間に“ひとつの中国”の意識が高まった

秦の始皇帝による中国統一:秦は中国版EU?

始皇帝は郡県制という中央集権制を導入。さらに度(ど)(長さ)・量(りょう)(容積)・衡(こう)(重さ)や文字、貨幣の統一なども行ないました。そのなかで特筆すべきは貨幣の統一です。

貨幣は戦国時代にすでに各国でつくられていましたが、始皇帝は中国初の統一通貨である半両銭(はんりょうせん)を導入しました

これにより、中国で現在のEU(欧州連合)のような単一市場が成立し、市場が活性化するとともに、民衆の間に〝ひとつの中国〟としての一体感が生まれたのです。

秦の始皇帝による中国統一:その時 日本は!?

クニから国へと発展

弥生時代には人々の間に身分差が生まれ、指導者が中心となってクニが形成されます。やがてクニ同士が争い、前200年頃からクニの国への統合が始まりました。

【東アジアの世界史】シルクロードとともに発展した漢(紀元前202年)

漢の中国再統一

ポイントその1.漢は前半期の前漢と後半期の後漢の時代に分かれ、約400年続いた
ポイントその2.武帝が派遣した張騫の道程がシルクロードの元になった
ポイントその3.シルクロードを通じて東西交易が盛んに行なわれた

シルクロードとともに発展した漢:シルクロードも漢の勢力圏に

秦は中国統一からわずか15年で滅亡した。その4年後の前202年、中国を再統一したのが漢(かん)です。

建国者は劉邦(りゅうほう)で、黄河流域の長安(現西安)に都を置きました。

その漢は7代武帝(ぶてい)の時代に最盛期を迎える。武帝は外敵の匈奴(きょうど)を討ち、朝鮮半島やベトナムにまで版図を拡大。さらに中央アジアを通るシルクロード(絹の道)をも支配下に入れたのです。

武帝は匈奴討伐の際、西アジアの大月氏(だいげっし)国から支援を得ようと、張騫(ちょうけん)を派遣しました。このときの張騫の道程がシルクロードの元になったといわれています。

その後、後漢の時代にシルクロードを通じて西方との交易が活発化。やがてローマ帝国が海上交易に力を入れると海の道もでき、東西交易がますます盛んになったのです。

地図の見方:陸上と海上のシルクロードを通じて東西交易が盛んに行なわれ、沿線の経済が発展した

【東アジアの世界史】三国志の時代が到来(208年)~魏・蜀・呉が死闘を繰り広げる

三国分立体制の確立のポイント

ポイントその1.三国時代はわずか60年間。が中国の覇権をめぐって争った
ポイントその2.赤壁の戦いを機に三国分立体制ができ上がる
ポイントその3.最後に笑ったのは魏でも呉でも蜀でもなくだった

三国志の時代が到来:赤壁の戦いが転機に

後漢末期の184年、黄巾(こうきん)の乱という宗教的な農民反乱が起こると、これをきっかけに中国は豪族が覇を競う群雄割拠の時代になります。

そこから台頭したのが魏(ぎ)の曹操(そうそう)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)、呉(ご)の孫権(そんけん)。歴史書『三国志』の主役たちで、彼らにより天下三分の計の政治状況がつくられました

当初は曹操率いる魏が優勢でしたが、劉備が孫権と同盟を結び、208年に赤壁(せきへき)の戦いで曹操軍を撃破。これにより魏、蜀、呉の三国分立体制が確立したのです。

地図の見方:赤壁の戦いを機に三国分立体制になったが、魏、蜀、呉のいずれも天下を統一することができなかった

三国志の時代が到来:中国を統一したのは晋!

しかし、三国分立体制は長く続きませんでした。蜀は劉備の軍師諸葛亮(しょかつりょう)の死後、魏に滅ぼされました。その魏も臣下の司馬炎(しばえん)に軍事力を掌握され、実権を奪われてしまいます。さらに呉は司馬炎が建国した晋(しん)に滅ぼされたのです。

こうして280年に晋が中国を統一し、三国分立体制は終焉を迎えることになります

ところが、晋もまた内乱を機に異民族に侵入されて滅亡します。そして中国は、五つの異民族が勢力を争う五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代に移っていきました。

三国志の時代が到来:その時日本は!?

卑弥呼の遣使

『三国志』によると、239年、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使節を送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を授与されます。

【東アジアの世界史】隋の煬帝による大運河建設(610年)発展と滅亡を招く

隋の大運河完成のポイント

ポイントその1.北周を乗っ取った楊堅(文帝)が隋を建国しました。
ポイントその2.2代皇帝煬帝は大運河を完成させ、中国の南北を結びます。
ポイントその3.大運河による水路網がの経済発展の原動力になったのです。

隋の煬帝による大運河建設:科挙は隋王朝で始まった

五胡十六国時代の後、約150年続いた南北朝時代を経て、中国は統一へ向けて動き出します。そのキーパーソンとなったのは、北周(北朝)の皇帝の外戚楊堅(ようけん)です。

581年、楊堅は北周を乗っ取り、隋(ずい)を建国。589年には陳(南朝)を滅ぼして中国を統一しました。

楊堅は帝位について(文帝(ぶんてい))国政の抜本的な改革をはかり、能力主義の官吏登用試験、科挙(かきょ)を実施。土地の均田制や税の租庸調制(そちょうよう)なども確立し、中央集権体制を築いていきました。

地図の見方:大運河で中国の南北が結ばれ、経済発展の原動力になった

隋の煬帝による大運河建設:全長1500kmの大運河

2代煬帝(ようだい)は運河の開削事業を推進しました。首都大興城(だいこうじょう)(長安)から黄河、長江にかけて、全長1500キロともいわれる大運河の開削を行ない、中国大陸の南北を結ぶ水路網を完成させたのです。

その結果、華北・江南地方の人の往来や物資流通が活発化し、経済発展の原動力となりました。

しかし、この大規模なインフラ事業は民衆に大きな負担を強い、高句麗(こうくり)遠征の失敗も祟って反乱が勃発。隋は建国からたった37年で滅亡したのです。

隋の煬帝による大運河建設:その時日本は!?

聖徳太子の活躍

推古天皇の摂政聖徳太子が十七条憲法を制定したり、遣隋使を派遣するなど活躍します。遣隋使の小野妹子は煬帝に「日出処天子……」という国書を渡し、対等外交をめざしました。

【東アジアの世界史】唐の建国(618年)巧みな統治で大帝国に発展

唐の建国のポイント

ポイントその1.唐は李淵が建国、2代・3代で基盤が築かれ、6代玄宗の時代に最盛期
ポイントその2.朝鮮半島や中央アジアにまで版図を広げ大帝国となった
ポイントその3.国際色の豊かな帝国で都の長安では多民族が共存していた

唐の建国:異民族を緩やかに支配する

隋が相次ぐ反乱で弱体化すると、煬帝のいとこの李淵(りえん)が息子の李世民(りせいみん)とともに挙兵。首都大興城(長安)を占領し、618年に唐(とう)を建国します。

2代皇帝太宗(たいそう)(李世民)は、モンゴル高原の突厥(とっけつ)を討ち、チベットの吐蕃(とばん)とは婚姻関係を結ぶなどして版図を拡大。さらに3代高宗(こうそう)は新羅(しらぎ)と組んで百済(くだら)や高句麗を滅ぼし、中央アジアにも進出しました。こうして唐は世界帝国となったのです。

唐の統治は律(りつ)(刑法)と令(りょう)(行政法)に基づく中央集権体制でしたが、対外的には皇帝に地方の長が従属する冊封(さくほう)や現地の長に統治を認める羈縻(きび)政策などをとる巧みなものでした。この緩やかな支配が大帝国の維持に大きく貢献しました。

地図の見方:唐が版図を広げて世界帝国になると、都の長安にはさまざまな国の人々が集まり、国際都市として繁栄した

唐の建国:長安が国際都市に

そして6代玄宗(げんそう)の時代に、唐は最盛期を迎えます。

都の長安は100万もの人口を誇り、シルクロード沿いの国の人々が訪れたり、朝廷に任える異民族が暮らすなど、多様性に溢れる国際都市として栄えました

唐の建国:その時日本は!?

大化の改新

645年に大化の改新が起こり、中央集権化が進みます。天武・持統朝では唐の律令制にならって大宝律令が制定されています。710年に遷都した平城京は長安をモデルとしています。

【東アジアの世界史】モンゴル帝国を建国したチンギス・ハン(1206年)

モンゴル帝国の建設

ポイントその1.モンゴルを統一したチンギス・ハンは、一代で巨大帝国を築く
ポイントその2.5代皇帝フビライ・ハンが中国全土を統一。交易の活性化もはかった
ポイントその3.モンゴル帝国は“世界商業帝国”の建設を構想していた

モンゴル帝国:史上空前の巨大帝国が完成

13世紀初頭、モンゴルの全部族を服属させますチンギス・ハン彼は機動力に優れた騎馬兵を率いてアジア各地を次々と制圧し、東西交易路として重要なシルクロードも押さえました

チンギスの死後も、モンゴル帝国の進撃は続きます。孫のバトゥはドイツ・ポーランド連合軍を撃破し、5代皇帝フビライは南宋(なんそう)を滅ぼして1276年に中国全土を支配、モンゴル帝国はユーラシア大陸のほとんどを勢力圏におさめたのです。

こうしてモンゴル・ヨーロッパ・イスラーム世界がつながると、フビライは交易の活性化をはかります。関税を撤廃、当時の国際通貨であるを広く流通させて自由貿易を促進したのです。このモンゴル帝国を基軸に展開された国際関係を「タタールの平和(モンゴルの平和)」といいます。

地図の見方:モンゴル帝国は屈強な騎馬隊を用いて征服活動を進める一方、東西交易を盛んにし、モンゴル人主導の”世界商業帝国”の建設を構想していた

【東アジアの世界史】鄭和の南海遠征開始(1405年)明が大航海を展開

鄭和の南海遠征開始のポイント

ポイントその1.貧農出身の朱元璋が元朝を打倒してを建国
ポイントその2.3代皇帝永楽帝の時代に、鄭和の南海遠征が行なわれた
ポイントその3.鄭和の大航海は、ヨーロッパの大航海時代より100年も先をいっていた

鄭和の南海遠征開始:永楽帝の積極外交

モンゴル帝国は14世紀に入ると反乱に悩まされ、中国の元(げん)朝は白蓮(びゃくれん)教徒による紅巾(こうきん)の乱で滅びます。そして、その乱の指導者のひとりである朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝(こうぶてい))が1368年に明(みん)王朝を樹立しました。

明の時代に注目すべきは対外政策です。初代洪武帝、2代建文帝(けんぶてい)は対外的には消極的でしたが、3代永楽帝(えいらくてい)は中華世界の威信を取り戻すため、積極的に外国へ打って出ます

まずモンゴルやベトナムなどに遠征して版図を拡大。さらに各国からの朝貢を促すため、イスラーム教徒の宦官鄭和(ていわ)に艦隊による南海遠征を敢行させたのです。

地図の見方:鄭和が大海に乗り出したのは、周辺国に対して朝貢を呼びかけるため。遠征をきっかけに、十数カ国が明へ朝貢してきた。日本の足利義満も朝貢している。

鄭和の南海遠征開始:アフリカまで到達!

鄭和の南海遠征は1405年から7度にわたって行なわれました

約60隻からなる大船団は東南アジアからインド、アラビア半島、アフリカ東岸にまで到達します。つまり明は、ヨーロッパより100年も早く大航海を展開していたのです。

この航海により十数カ国が明へ朝貢し、世界各地の特産品が集まりました。

鄭和の南海遠征開始:その時日本は!?

室町幕府の最盛期

室町幕府の3代将軍足利義満は有力な守護大名を抑え、南北朝の統一を成し遂げるなどして権威を高めました。明との交易でも莫大な利益を得て、幕府の絶頂期を築きます。

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