目次
大阪の空港①:大阪国際空港(伊丹空港)とは
1930年代ごろから世界の航空需要は高まり、日本でも国際空港の開設が進められました。そして1939年に開設されたのが大阪第二飛行場であり、これが伊丹空港の前身です。
大阪にはすでに木津川(きづがわ)飛行場(大正区)ありましたが、周辺にある工場の煤煙(ばいえん)で視界が悪くなるなどの欠点がありました。
そこで大阪市は新たな国際飛行場の建設を計画し、兵庫県も神津村(かみつむら)(現・伊丹市)での建設を計画しました。ちなみに神津村が選ばれたのは、田畑が広がる土地なので見晴らしがよく、利用客として見込める富裕層が多く暮らすエリアに近いなどの理由からです。
両方の計画を知った国は、大阪市の空港を大阪第一飛行場とし、兵庫県の空港を予備の大阪第二飛行場とします。しかし第一飛行場の工事が遅れ、計画は白紙撤回となります。そのため、第二飛行場が国際空港として利用されることとなったのです。
第二飛行場は戦時中に軍用の伊丹飛行場となり、終戦後は接収されました。その際、「伊丹エアベース」と呼ばれたことから、伊丹空港の通称が定着しました。
伊丹空港には国際線がないのに国際空港と呼ばれ続けるのはなぜ?
1958年に接収が解除されて大阪空港として再開港し、翌年の国際線開設で大阪国際空港と名称を変えました。
関空が開港してからは、伊丹空港に国際線はなくなりました。それでも国際空港の名を残しているのは、「国際」の文字を外すことで拠点空港のイメージが低下することに危機感を抱いた地元自治体からの要望によるものです。
さらに、国際便を復活させた東京国際空港(羽田空港)のように、地元自治体は国際線の復活も希望しています。
境界線が入り乱れる伊丹空港周辺
大阪国際空港の南ターミナル付近には池田市の飛び地に囲まれた豊中市の飛び地があり、豊中市の中に府県境を越えた伊丹市の飛び地があるという、複雑な境界線になっています。
大阪の空港②:関西国際空港(関空)とは
1960年代ごろ、ジェット旅客機の大型化や海外旅行の自由化により航空需要の大幅な増加が見込まれました。
ですが、伊丹空港では対応が難しいとの判断が下され、1963年には関西での第2国際空港建設が閣議了承されます。これを受けて運輸省(現・国土交通省)が基本調査を開始し、淡路島(あわじしま)、明石(あかし)沖、ポートアイランド沖、泉南(せんなん)沖などが候補地となりました。
関空が海上に建設されたのはなぜ?
新空港が海上に計画された理由は、公害問題です。ベッドタウン化した伊丹空港周辺では、騒音や排気ガスに悩まされる住民が夜間運航の差止めを求めて国を提訴しています。そのために、5㎞以上の沖合での建設が必須となりますが、新空港の候補地でも激しい反対運動が起こりました。それでも、国の担当者による地道な説得や、北部に比べて遅れていた大阪南部への開発が見込まれると、地元の自治体も反対決議を取り下げました。
関空の開港と経営状態
1984年、日本初の会社管理空港とするため関西国際空港株式会社が設立されます。1987年の空港島護岸築造を皮切りに工事が進められ、1991年に空港島の造成工事は完了。3年後に開港しました。
しかし、利便性の悪さやバブル経済の崩壊による不況で需要は伸びずに赤字が続き、2004年に累積損失が約2000億円に達しました。政府は経営再建を実施、政府補給金による公的資金注入も行い、翌年には黒字化を達成しました。
その後、LCCの参入や海外からのインバウンド効果もあり、利用客は増加。2012年には新関西国際空港株式会社が設立されて伊丹空港と経営統合し、3年後には「関西エアポート」が設立され、関西3空港が一体運営されることとなりました。
関西国際空港発着のLCC路線
開港以来長く低迷していた関西国際空港ですが、LCCの乗り入れによって活性化しました。東アジア、東南アジアへの路線はインバウンドを支えました。
ただし、2020年になると新型コロナウイルスの影響で路線の多くは赤字に転落しています。
大阪の空港③:八尾空港とは
1938年(1933年、1934年説もあり)に開港した八尾空港は、操縦士の育成が目的の阪神飛行学校をはじまりとしています。この民間の学校が軍備増強を理由に陸軍に接収され、1940年に大正(たいしょう)飛行場に改称。名前の由来は、当時の地名である中河内郡大正村からです。
陸軍は周辺の土地を強制的に買収して敷地を拡張。記録によると用地費などの建設予算は750万円で、大阪市が70万円、府が150万円を支出。民間の寄付で430万円をまかない、陸軍は100万円を負担しました。つまり、予算のほとんどは民間の資金によるものでした。
敷地面積は287haで、コンクリートで舗装された1600mの主要滑走路と1300mの副滑走路の幅はいずれも100m。これは当時の国内最大規模であり、「東洋一の滑走路」とも呼ばれていました。
八尾空港の戦時中~現在までの紆余曲折
ですが、戦時中は格好の攻撃目標となったため、コンクリート製の飛行機専用防空壕(掩体壕(えんたいごう)が設けられました。現在も空港近くの垣内地区には、当時の掩体壕が残されています。
1945年、終戦によってアメリカ軍に接収され、7年後には阪神飛行場と改称。1954年に返還されています。返還後間もなくは定期航路も運行されていましたが、現在は廃止。航空宣伝や写真測量などの事業用や、小型航空機による自家用、また陸上自衛隊や消防、警察の航空隊によって利用されています。
東西に長い靱公園は空港だった
大阪市西区にある「靭(うつぼ)公園」は南北約150mなのに対し、東西は約800mという細長い形をしています。そんな敷地になったのは、飛行場として開発されたからです。大阪大空襲で焼け野原になった土地を、連合軍総司令部(GHQ)が接収し、連合軍の常用飛行場としました。
その後、1952年に返還され、戦災復興土地区画整理事業によって3年後に靱公園が開園。1959年にはなにわ筋が敷設され、公園の間を縦断する現在のような形になったのです。
『大阪のトリセツ』好評発売中!
大阪府の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。大阪府の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
【見どころ―目次より抜粋】
Part.1:地図で読み解く大阪の大地
大阪の歴史は水を起源とするとされる理由
大阪府の属する関西・近畿・畿内の違い
こんなに違った古代の大阪! 消えた河内湾と河内湖 ほか
Part.2:大阪を駆ける充実の交通網
西国へ、京都へ、熊野へ府下を通る旧街道の痕跡
どの道路が、なぜ混むのか?大阪の道路網の現状
徹底比較! 大阪の私鉄(阪急電鉄と阪神電鉄、京阪電気鉄道、近畿日本鉄道、南海電気鉄道) ほか
Part.3:大阪の歴史を深読み!
幕府軍が落とせなかった千早赤坂城の秘密
織田信長に恭順して残された富田林寺内町
天下の台所として日本経済を支えた中之島 ほか
Part.4:大阪で生まれた産業や文化
ダイハツ、パナソニック・・企業城下町の今
万博、花博、EXPO2025など国際博覧会の最多開催地・大阪
偉人たちが好んで食したなにわの伝統野菜 ほか
<コラム>
データで分かる74市区町村 人口と所得、観光、工業・農業・漁業
絵図で見る 大阪の川と「八百八橋」
鳥瞰図で見る 100年前がわかる大阪市パノラマ地図
鳥瞰図で見る 吉田初三郎が描いた90年前の大阪府
鳥瞰図で見る 大阪周辺にある歴代天皇・皇族の陵墓
絵図で見る 大坂冬の陣における諸将の配置
一見の価値あり! ヘンチクリンな建築物
『大阪のトリセツ』を購入するならこちら
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!