大阪の長い駅名はどのように決まった?
大阪の駅名の最大の特徴は、長い合体駅名でしょう。
南海の岸里玉出(きしのさとたまで)駅は難波寄りにあった岸ノ里駅と南に400m離れた玉出駅が合併してできた名前です。高架工事にともなって岸ノ里駅は南側に移設されることとなり、玉出駅の吸収が発案されました。
ところが、地域名がなくなる玉出駅周辺の住民が反対。意見をくみ取り、南海は統合という形で新駅を岸里玉出駅としました。
このように、大阪の駅名の変更には住民の意見が反映されることが多く、地下鉄の西中島南方(にしなかじまみなみがた)駅も、連絡している阪急の南方駅を推す住民と実際の住所である西中島を採用するよう求めた住民が対立。妥協案として両方をあわせた駅名に決まりました。
以後、大阪市交通局(現・Osaka Metro)は地域住民の意見を尊重するため、千林大宮(せんばやしおおみや)駅、野江内代(のえうちんだい)駅、喜連瓜破(きれうりわり)駅のように、地名を合わせた駅名を採用しています。
大阪の駅名の長さをめぐって起こった論争
長い駅名で論争となったのが四天王寺前夕陽ケ丘(してんのうじまえゆうひがおか)駅で、1968年に開業される際、夕陽丘町に位置することから、当初は夕陽ケ丘駅と命名される予定でした。
しかし、開業直前に四天王寺前駅という名前に変更。これに夕陽丘の住民が異を唱えたため、交通局は苦肉の策として四天王寺前(夕陽ケ丘)と表記することを決定しました。そして1997年、長堀鶴見緑地線の開業に合わせて路線図を改める際、四天王寺前夕陽ケ丘駅が正式名称となったのです。
大阪の駅名が二転三転したケース
さて、数年単位でコロコロと名前の変わったのが阪急の関大前(かんだいまえ)駅です。1921年の開業当時は花壇前(かだんまえ)駅。1938年には千里山遊園(せんりやまゆうえん)駅となりますが、5年後に「戦時中に遊園地はないだろう」ということで千里山厚生園(こうせいえん)駅に変更されました。
戦後の1946年には千里山遊園駅と名前が戻され、4年後に近くに女子大学ができる計画が持ち上がると、女子学院前駅になりました。
ところが計画は頓挫したため花壇町(かだんちょう)駅となり、駅間距離が短かったことから1964年に、大学前駅と統合されて関大前駅となりました。
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