更新日: 2024年11月6日
藤原道長とはどんな人物だったのか~藤原氏の全盛期を担った大貴族と紫式部の秘められた関係
藤原道長が生きたのは、摂関政治の最盛期。摂関家として藤原道長は、どのようにしてその頂点へ立つに至ったのでしょうか?
平安時代中期にかけて藤原氏は、他氏排斥に注力します。その後、藤原氏族内の権力を掌握していったのが藤原道長です。熾烈な権力闘争のほかに、紫式部とのエピソードも興味深いものが残っています。
藤原道長は平安時代摂関政治の頂点へ
摂関時代の最盛期に活躍した藤原道長は、摂政を務めた藤原兼家の5男です。兄の藤原道隆、道兼が相次いで亡くなると、天皇の母である姉東三条院(藤原詮子)の強力な後援で道隆の子・藤原伊周(これちか)との権力争いに勝利を収めました。こうして、藤原道長は、一族内の争いを勝ち残ったのです。
藤原道長、娘を天皇に入内させる
長保元年(999)に娘の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させた藤原道長は、彰子の後宮を最高のものにしたいと才女を女房に集め、『源氏物語』で評判だった紫式部もスカウトしました。以降、藤原道長は『源氏物語』の執筆をサポートしていきます。
やがて彰子が皇子をふたり生むと、その皇子を次々と天皇につけ、天皇の外祖父として並びなき権勢を手に入れることになります。ついには3人の娘が后になるという未曽有の威勢を成し遂げ「望月(もちづき)の歌」を残しました。
――― この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
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