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後宮文化サロン「中宮・藤原彰子サロン」

9世紀後半の宮廷では、歌合(うたあわせ)や管絃(かんげん)といった遊芸が盛んになり、後宮の妃たちにも和歌や琴などの教養が必須となりました。10世紀の摂関時代にはこうした傾向が高まり、妃を中心に文化サロンが生まれます。

中宮・藤原彰子の彰子サロンは、『源氏物語』の作者・紫式部、歌人で『和泉式部日記』の作者・和泉式部、同じく歌人の赤染衛門伊勢大輔などの女流文化人を擁するサロンでした。

中宮・藤原彰子は紫式部から『白氏文集』の講義を受けたり、『源氏物語』の執筆をサポートしたりとふたりだけで話す機会も多かったようです。紫式部が中宮・藤原彰子へ使えることになったきっかけを、見ていきましょう。

中宮・藤原彰子へ紫式部が出仕するきっかけ

定子死去後の寛弘2年(1005)頃の年末、紫式部が一条天皇の中宮・藤原彰子の女房となります。その年、内裏が炎上し、東三条院を里内裏(臨時の内裏)として一条天皇や彰子らが移ることになります。

中宮・藤原彰子の父である藤原道長は、中宮・藤原彰子を天皇の寵愛を得る女性にしたいと、周りに仕える教養豊かな女性たちを集めていました。そうした時、『源氏物語』を書く紫式部の評判を耳にして、紫式部の父・為時、弟・惟規などを介して紫式部の出仕を求め、彼女をスカウトしたとみられます。

中宮・藤原彰子への出仕に乗り気でなかった紫式部

紫式部本人は当初、出仕に乗り気でなく、道長夫妻はあらゆるルートを使って紫式部に出仕を促しました。もともと紫式部と道長の妻の源倫子(みなもとのりんし)はまたいとこの間柄であり、亡き夫・宣孝の兄・説孝(ときたか)も道長に仕える立場にありました。こうした人々に出仕を勧められたうえ、自身の父も弟も道長の恩顧になったことを考えれば断り切れなかったのでしょう。

中宮・藤原彰子のサロンでいじめられる紫式部

こうして、寛弘2年(1005)の暮れに出仕した紫式部でしたが、年を越すとすぐ里下がりしてしまいます。その背景には、同僚女房によるいじめがありました。『源氏物語』の作者という経歴から、同僚女房から「才能を鼻にかけ、とっつきにくく人を見下している人」と警戒されたのです。

けれどもその後、中宮・藤原彰子や同僚女房たちからの手紙を受けて紫式部は5か月後にようやく復帰します。今度は間抜けな振りをして同僚の警戒心を解いたことが、『紫式部日記』で語られています。

『紫式部日記』に見る中宮・藤原彰子の初産ルポ

中宮・藤原彰子の女房、紫式部は文才を買われて、中宮・藤原彰子の初産の記録係を申し付かります。

紫式部の中宮・藤原彰子への宮仕えの様子は、寛弘7年(1010)に、過去を振り返る形で執筆された『紫式部日記』で知ることができます。

その日記は寛弘5年(1008)、入内(じゅだい)から9年を経た中宮・藤原彰子の待望の出産を控える土御門殿(つちみかどどの)(藤原道長邸)の記述から始まります。これは紫式部の文学的素養を見込んだ道長から、中宮・藤原彰子の出産記録係を命じられたためといわれています。

中宮・藤原彰子の出産に向けた加持祈禱

『紫式部日記』は出産を待つ中宮・藤原彰子や道長、女官たちの描写が続きます。安産を願う絶え間ない読経(どきょう)と「五壇の御修法(ごだんのみずほう)」の加持祈禱の声が響くなか、男子を生む使命を背負わされた中宮・藤原彰子は、けなげにもつらさを見せずおつきの女房たちの会話に耳を傾けています。

一方、庭で遣水沿いを歩きながら、掃除を監督していた道長は、渡殿(わたどの)にいる紫式部の存在に気付くと、「女郎花(おみなえし)」の枝を折って差し出し、機転を確かめました。紫式部がとっさに「私は女郎花を見ると美しくないわが身が思いやられる」という歌を返したといいます。

中宮・藤原彰子、皇子を無事出産!

中宮・藤原彰子の陣痛は九月九日夜半から始まりました。中宮・藤原彰子は白い御帳台(みちょうだい)(産所)に移ります。道長が几帳の外から大声で励まし、中宮・藤原彰子にとり憑いた物の怪をよりましに移すための祈禱の声や、物の怪が騒ぐ声などが邸内に響き阿鼻叫喚(あびきょうかん)の様相を呈していきます。

紫式部はというと、中宮・藤原彰子の親戚筋の女房らと産所の次の間に控えていたようです。中宮・藤原彰子は髪を削そいで一時的に出家し、さらなる加護を願うほどの難産だったといいます。しかし、陣痛の始まりからおよそ36時間後、11日の正午頃に、中宮・藤原彰子は待望の皇子を出産しました。のちの後一条(ごいちじょう)天皇です。

中宮・藤原彰子の産後を伝えるルポライター・紫式部

後産(あとざん)も無事終わると、紫式部の視点は顔を泣きはらして化粧が崩れた女房や、権力の頂点に王手をかけて喜びに湧く道長の周囲の人々の様子などへ向けられます。道長は余裕のある姿で屋敷を見回り、中宮職(ちゅうぐうしき)の長官・藤原斉信(ただのぶ)は嬉しさを隠し切れない様子。
一方で紫式部は、ライバル関係にあるために素直に喜べない道長の甥たち、藤原兼隆(かねたか)と藤原隆家(たかいえ)の複雑な心中も察しています。

ほかにも紫式部は、疲れて眠る中宮・藤原彰子の姿や、時間構わず孫を見に来る道長の好々爺ぶりも伝え、優れたルポライターぶりを発揮しています。

出産後の盛大な祝賀行事

親王誕生に湧く土御門殿では、出産後の祝いの行事が続いていきます。産湯を使う「御湯殿(おゆどの)の儀」に始まり、産養(うぶやしない)の祝宴が3、5、7日目のほか特別に9日目にも行なわれます。誕生から一か月後には一条天皇が行幸して我が子と対面します。この後、五十日(いか)の酒宴も盛大に行なわれました。

中宮・藤原彰子の出産を祝う行事

寛弘5年(1008)9月11日の昼頃、敦成親王を無事出産した中宮・藤原彰子。その後の祝賀行事を詳しく見ていきましょう。まずは、当時の出産の様子はどういうものだったのでしょうか。

当時の出産は座ったまま生む「座産」のスタイルでした。産屋の前に座る女房は、邪気を払うために米を撒いています。そのそばには、安産祈願と悪霊退散のための御修法を行なう僧「寄りまし(座産)」の女童には、乗り移った悪霊が声を上げて苦しんでいます。そして、祝詞を唱える陰陽師邪気を退散させるため矢をつがえず、弦を弾き鳴らす鳴弦を行なっている者も。

このように『紫式部日記』によると、彰子の出産は、大勢の僧侶や修験僧、陰陽師が祈りを捧げ、物の怪のわめき声が響きわたるなかで行なわれたようです。

中宮・藤原彰子の出産祝い行事

出産後
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産養三日の祝い 
産養は、子の将来の幸せを願って、生誕3日・5日・7日・9日目の晩に催される祝宴のことです。

中宮職主催の祝宴が行なわれました。(『紫式部日記』の記述より)
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産養五日の祝い
実家(道長)主催の祝宴が行なわれました。人々が親王誕生を祝う様子が描かれ、女房たちがまとう衣装の批評を始め、古株の女房の衣装を批判しています。(『紫式部日記』の記述より)
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産養七日の祝い
皇室(一条天皇)主催の祝宴が行なわれ、勅使として道長のライバル・伊周の息子が来訪します。(『紫式部日記』の記述より)

産養九日の祝い
頼通主催の祝宴が行われました。(『紫式部日記』の記述より)
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五十日祝
生誕50日目に行なわれる「食い初め」の儀式。餅が50個用意されます。

出産のひと月後、一条天皇が六条殿へ行幸。紫式部は同僚の小少将ともに遅刻してしまいました。女房たちは着飾って御前に参集し、公卿たちが別棟で宴会を繰り広げました。藤原顕光は、女房に戯れかかり、扇を取り上げています。(『紫式部日記』の記述より)
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百日祝
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乳母の選定

藤原彰子の命で制作された『源氏物語』

皇子出産後の11月、内裏(だいり)へ帰る日が近づき慌ただしさが増すなか、中宮・藤原彰子の命で『源氏物語』の豪華本が制作されることになりました。

作者である紫式部は、料紙(りょうし)の選定や清書を依頼する一方で、清書の綴(とじ)集めをするなど、一連の作業を取り仕切っています。

『源氏物語』は中宮・藤原彰子から一条天皇へのお土産として発案された

道長が上質な光沢のある薄様紙(うすようがみ)や筆、墨、硯まで用意していることを見ても、これは中宮・藤原彰子から一条天皇へのお土産であったと考えられます。一条天皇は以前に『源氏物語』を読んで感心しており、そのため中宮・藤原彰子は新しい部分を豪華本に仕立て、天皇と楽しもうとしたのでしょう。

このエピソードから『源氏物語』が段階を経て書き足されていたこと、その執筆が宮仕えを始めた後も続いていたことが分かります。このとき、作られた豪華本は残っていませんが、公文書や漢文用の巻子本(かんすぼん)ではなく、冊子本(さっしぼん)で製本されたと考えられます。

『源氏物語』の草案が持ち去られる

またこの作業中、紫式部が自室に保管していた『源氏物語』の草稿が道長に持ち去られたことが紫式部日記に記されています。中宮・藤原彰子の妹の研子(けんし)に見せようとしたようですが、紫式部は書き換え前の不完全な草稿が出回ってしまったと悔しがりました。著作権などない当時の原稿の扱い方が伝わる記述であり、興味深いですね。

中宮・藤原彰子も手伝った製本作業

紫式部と中宮・藤原彰子はともに冊子作りを行なったといいます。平安時代、文書は巻子本(巻物)の形式で残すことが義務付けられていましたが、物語にそれは適用されず、先述のように冊子として編まれていました。

内裏へ戻る中宮・藤原彰子

11月17日。この日、中宮・藤原彰子は内裏への還啓(かんけい)の日を迎え、紫式部ら女房たちも従いました。

この時、牛車(ぎっしゃ)に乗り込む順番は女房たちの序列に基づいており、そこから当時の紫式部の序列が7、8番目だったことが分かります。ところがこのとき、紫式部は同乗の馬の中将という女房に露骨に嫌な顔をされてしまいます。その理由は不明ですが、馬の中将の方が、家柄が良く古株の女房であったため、浅いキャリアながら上位にいる紫式部に反発したと考えられています。気持ちがなえた紫式部は小少将(こしょうしょう)の君と愚痴り合ったと告白しています。

馬の中将に関する記述から、中宮・藤原彰子の女房たちの間にも複雑な人間関係があったことがうかがえます。また、一条天皇には中宮の藤原定子と藤原彰子のほか、3人の女御がおり、その女房同士の間でも対立関係があったことがわかります。

中宮・藤原彰子の住まい、宮中での強盗事件

『紫式部日記』には、その年の大晦日には宮中に強盗が入り、女房が見ぐるみはがされた事件の記述があり、興味深いものになっています。

紫式部はすぐに中宮・藤原彰子を心配するなど女房としての自覚を示しています。当時の宮中には一定の割合で強盗が入り、警備の薄さが垣間見えます。ただし逆にいえば、反乱の心配のない平和な時代だった証と見ることもできるでしょう。

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世界最古の長編小説ともいわれる『源氏物語』は、平安時代の宮廷を舞台に展開される主人公・光源氏と女性たちの恋愛模様を描いた物語で、今もなお多くの人に愛読される日本文学の古典です。ですが、全54帖という長編ゆえに最後まで読み通すのは大変困難な作品であることでも知られています。
本書はこの大長編小説『源氏物語』のあらすじと、作者・紫式部の人と生涯を図版と地図を豊富に用いながらわかりやすく解説した『源氏物語』の入門書です。

【第1部】紫式部とその時代
〔第1章〕平安時代の後宮生活
〔第2章〕紫式部の生涯

【第2部】 押さえておきたい『源氏物語』
〔第3章〕光源氏の青年時代―恋の旅路を歩む貴公子
〔第4章〕栄華の頂点―位人臣(くらいじんしん)を極めた光源氏
〔第5章〕宇治十帖―光源氏亡き後の世界

【監修者】竹内正彦

1963年長野県生まれ。國學院大學大学院博士課程後期単位取得退学。博士(文学)。
群馬県立女子大学文学部講師・准教授、フェリス女学院大学文学部教授等を経て、現在、國學院大學文学部日本文学科教授。専攻は『源氏物語』を中心とした平安朝文学。著書に『源氏物語の顕現』(武蔵野書院)、『源氏物語発生史論―明石一族物語の地平―』(新典社)、『2時間でおさらいできる源氏物語(だいわ文庫)』(大和書房)、『図説 あらすじと地図で面白いほどわかる!源氏物語(青春新書インテリジェンス)』(青春出版社、監修)、『源氏物語事典』(大和書房、共編著)ほか。

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