更新日: 2024年11月6日
紫式部と清少納言、二人の関係を探る~平安時代の文化発信源となった二人の女房
『源氏物語』を書いた紫式部と『枕草子』の清少納言。
平安時代の後宮で中宮(后)の教育係として、文化サロンの発信源になった二人の女房たち。
紫式部と清少納言の関係はどういうものだったでしょう。
先に中宮定子に仕える女房となったのは、清少納言。定子没後、中宮彰子に出仕した紫式部。
ふたりの生い立ちから、当時の社会背景とともに関係を探っていきましょう。
目次
紫式部と清少納言の関係を語る上での清少納言の生い立ち
清少納言は、『枕草子』の作者として知られる平安時代の文化人です。父は、受領階級で歌人の清原元輔(きよはらのもとすけ)で、祖父(曾祖父)も高名な歌人という歌人一家に育ちました。
清少納言は若くして橘則光(たちばなののりみつ)と結婚するも、一男をもうけたのちに離婚。正暦(しょうりゃく)4年(993)頃から一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えました。
才気煥発な才女で、コミュニケーション能力の高さで定子サロンの中心人物となり、貴族らと機知に富んだやり取りを繰り広げました。その後、道長方への内通を疑われ、里下がりしたときに『枕草子』を書き始めたといいます。その後、再び出仕して定子が没するまで支える一方、定子との栄光の日々を『枕草子』に綴りました。
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