更新日: 2024年1月12日
芥川山城~戦国を彩るも、戦乱の中で失われた大阪府の名城
大阪府の城といえば、 天守のある大阪城と岸和田城、 そして幕末まで藩が存続した高槻城の名があがります。しかし戦国時代までは、 もっと多くの城があったのでした。
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芥川山城は細川高国が築城
現在も城郭として残っている大阪城、岸和田城、高槻城を除き、戦国時代の城跡として規模が最大級とされるのは、高槻市にある芥川山城(あくたがわさんじょう)跡です。
この城は、1515年から翌年にかけて、細川高国(ほそかわたかくに)が築城したとされています。細川嫡流家の戦いで高国が敗れたのち、勝利した細川晴元(はるもと)が芥川山城に入りました。その細川晴元も、三好長慶(みよしながよし)に敗れて追放され、三好長慶が本拠地としたのです。
芥川山城城主の変遷
1560年、三好長慶は芥川山城を去り、息子の三好義興(よしおき)が家督とともに継承しました。
1563年に義興が病死すると、台頭してきた織田信長が、三好一族らを追い出してこの城を押さえます。
織田信長は摂津三守護のひとりである和田惟政(わだこれまさ)を城主とし、のちに和田惟政が高槻城に移るとその家臣の高山友照(たかやまともてる)が芥川山城に入ります。このあと和田惟政は戦死し、高山友照は息子の重友(しげとも)(右近)とともに和田惟政の子和田惟長(これなが)を追放して高槻城主となりました。このとき芥川山城は廃城になったと考えられています。
芥川山城跡は三好山の頂上に残る
三好山の頂上にある芥川山城跡ですが、三好山は摂津峡公園の東側に位置し、標高は182.69m。頂上までは登山道が整備されておらず、人がすれ違うのも困難な場所もあります。
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