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縄文時代:黒曜石・ヒスイが広げた交易

山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。

日本列島で黒曜石が採掘される場所は北海道から九州まで100カ所以上ありますが、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石は純度が高く高品質であり、割れ口が鋭く加工しやすかったのです。そのため、矢じりやナイフをはじめとする多彩な石器づくりの材料として広く利用されていました。

縄文時代に村々をつないだ「黒曜石の道」

掘り出された黒曜石は、麓の村から村へと運ばれていき、村を結ぶ道は黒曜石の道となっていきました。この地で採れた黒曜石は、遠く離れた北海道の遺跡からも見つかっており、良質な黒曜石を求めて遠くの地域から他の縄文人が訪れていたようです。

現在のような運搬手段がなかった時代に、いったいどのように運んでいたのかは謎に包まれていますが、産地限定の黒曜石が大量に、しかも広域に流通していたという事実は、この石がいかにハイブランドで人気が高かったのかを物語っています。

この黒曜石の交易を通して、人や物、情報などがこの山麓に集まった結果、芸術性が高く当時の人々の精神性がよくわかる資料が多く作られたと考えられます。

縄文時代のヒスイ原産地

古代の新潟県域では、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)といった玉類の製作が盛んでした。原石に用いられたのは新潟県産のヒスイで、とりわけ国内における硬玉(こうぎょく)(ヒスイの一種)の露頭産地は糸魚川(いといがわ)と青海川(おうみがわ)上流の2カ所のみ。その周辺地域では、縄文時代から硬玉を原材料とした玉類が多くつくられてきました。

糸魚川市の寺地(てらじ)遺跡長者ヶ原(ちょうじゃがはら)遺跡などがその代表例で、これらの遺跡からは勾玉や小玉が出土しているだけでなく、未成形のヒスイ類も多量に見つかっています。このことから、これらの集落遺跡は玉類を製作していた「玉つくりのムラ」であったと考えられています。ここから各地へ運ばれていたのです。

縄文時代:鬼界カルデラの超巨大噴火が起こった南九州

鬼界カルデラは、先史時代以前に何回か大規模な噴火を繰り返してきており、そのもっとも新しいものが、約7300年前に起こった世界最大規模の超巨大噴火です。縄文時代前半に起こったこの噴火では、海底火山から数百℃の火砕流が発生。火砕流は時速数百㎞のスピードで海上を走り抜け、大隅半島や薩摩半島など南九州地域一帯を襲いました。

南九州の地層を見ると、黒土層のなかに厚さ30㎝~1mほどのオレンジ色をした土の層が挟まっているのがわかります。この地層は「アカホヤ」と呼ばれていますが、これが鬼界カルデラ噴火の火山灰です。そのためこの大噴火は鬼界アカホヤ噴火とも呼ばれています。

鬼界カルデラが起こした約7300年前の巨大噴火は、南九州の環境だけでなく、人間の文化にも大きな影響を与えています。当時、九州南部には縄文人が暮らしていましたが、アカホヤ火山灰層の上と下の地層では、石器や土器などの形式がまったく違っていることが明らかになっています。この巨大噴火によって南九州に栄えていた縄文文化は壊滅し、噴火後、数百~1000年近くにわたって無人の地になってしまいましたその後、違う文化を持った人たちがやってきて、この地で暮らし始めたと考えられています。

縄文時代早期の鹿児島県内最古、上野原遺跡

上野原遺跡は、約1万1500年前の桜島の火山灰の層の上から見つかりました。このうちいくつかの竪穴住居内の竪穴を埋めた土には、約9500年前に噴火した桜島の火山灰が混じっていたことがわかっています。このことから、上野原遺跡は、縄文時代早期前葉(約9500年前)に存在していた集落跡であると推測されています。

集落の住居数もさることながら、集落跡の面積は1万5000㎡ほどと広く、発見当時には「国内最古級で、最大規模の定住集落跡」とされました。

同時期の遺跡としては加栗山遺跡(かくりやまいせき:鹿児島市川上町)や前原遺跡(まえばるいせき:鹿児島市福山町)などが知られていましたが、一般的には縄文文化は三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき:青森県青森市) に代表されるように、西日本より東日本で繁栄していたと考えられていました。

いわば「東高西低(とうこうせいてい)」が定説とされていたわけですが、縄文時代の初期においては上野原遺跡の発見によりそれが覆されたことになります。

上野原縄文の森

住所
鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森1-1
交通
JR日豊本線国分駅からタクシーで20分
料金
入園料=無料/展示館=大人310円、高・大学生210円、小・中学生150円/アクセサリー作り=200円/(障がい者手帳持参で展示館入館無料、県内在住の70歳以上は証明書持参で展示館入館料無料)

縄文時代の大噴火を生き延びた熊本県の轟貝塚

宇土市宮庄町(みやのしょうまち)の轟(とどろき)貝塚からは、1917(大正6)年に縄文時代前期の土器(轟式土器)や埋葬人骨が発見されたことが知られていますが、その後の調査で鬼界カルデラ噴火以前の約7500年前(縄文時代早期末)まで遡る人骨も出土しています。つまり、轟貝塚周辺に住んでいた人々は鬼界カルデラ噴火という大災害の中を生き延びた人々なのです。

この轟式土器は、九州地方を中心に中国地方西部、山陰地方、朝鮮半島南岸沿いで発見されており、その当時から広く交易が行われていたことを示しています。

縄文時代:稲作は、弥生を待たずに始まっていた?!

以前は、日本で稲作が始まったのは弥生時代の初め(紀元前4~5世紀)とされていました。しかし、今では縄文時代にすでに稲作が始まっていたというのが定説になっています。

たとえば、佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡は一時期、日本最古の稲作の遺跡とされ、1983(昭和58)年には国の史跡に指定されていました。菜畑遺跡は、JR唐津駅から西に2㎞ほどのところに位置していますが、1980(昭和55)年12月から1981(昭和56)年8月にかけて行われた発掘調査の結果、水田の跡が見つかり、約2600年前の縄文時代晩期後半に谷底平野の斜面下部や低地の縁辺でイネの栽培が始まったと考えるに足る発見とされました。

しかしその後、新たな発見が続きました。岡山県、熊本県でも稲作が始まっていた痕跡が見つかっています。当時の状況を見ていきましょう。

縄文時代:縄文人が作ったストーンサークル

ストーンサークル(環状列石(かんじょうれっせき))とは、地表面を平坦にし、石や溝、土手などで一定の範囲を円形に区画し、そこに集団墓地を造営したものを指します。縄文時代後期から晩期にかけて日本列島全土で行われるようになった風習であり、この時期に集団墓地が造営されるようになったのは、定住化と一定規模以上の集住が常態化したことが理由であると推測されます。

縄文時代の北海道のストーンサークル

本州と同様、北海道でも道北を除く全域でストーンサークルがつくられました。小樽から余市にかけての地域は、半径4㎞圏内に100基以上のストーンサークルが確認されている国内最大級のストーンサークル密集地帯。

そのなかでも最大のストーンサークルが忍路(おしょろ)環状列石です。この遺構は縄文時代後期後半に造営されたもので、三笠山(みかさやま)の麓の標高20mほどの河岸段丘(かがんだんきゅう)上に位置します。

この遺構から約70m離れた低湿地には、ストーンサークルを見上げるようにして、同時代のものとみられる集落の遺跡(忍路土場(どば)遺跡)が存在しました。そのことからも、忍路環状列石はこの集落の人々の聖なる場所として畏敬されていたことがわかります。

世界遺産のストーンサークル、大湯環状列石

大湯環状列石は、米代川(よねしろがわ)の支流である大湯川の左岸、標高180mの中通台地上に位置しており、ふたつの環状列石(野中堂環状列石、万座環状列石)を主体としています。

環状列石はストーンサークルとも呼ばれ、大小のさまざまな石を環状に配置したものを指します。どちらも同心円状に二重の環(外帯と内帯)を形成しており、野中堂環状列石の最大径は44m、万座環状列石の最大径は52mで日本最大級です。なお、使用されている石の大半は石英閃緑(せきえいせんりょく)ヒン岩(がん)で、大湯川から運ばれてきたものと考えられています。

周囲には掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、土坑(どこう)、貯蔵穴、遺物集中域が同心円状に広がり、環状列石は配石墓とする説が有力です。

また、外帯と内帯のあいだには日時計状の遺構も確認されています。日時計状組石とふたつの環状列石の中心の石を結んだ直線が、夏至(げし)の日没位置を指しており、ストーンサークルは縄文人の精神性を強く表している遺跡といえるでしょう。

大湯環状列石

住所
秋田県鹿角市十和田大湯万座45
交通
JR花輪線鹿角花輪駅から秋北バス大湯温泉行きで35分、大湯環状列石前下車すぐ
料金
情報なし

縄文時代:世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」

「北海道・北東北の縄文遺跡群」とは、ユネスコ世界遺産に登録された北海道や東北地方北部の縄文遺跡群の総称です。2021(令和3)年5月26日、ユネスコの諮問機関(イコモス)から日本の文化庁に対し、「北海道・北東北の縄文遺跡群」は世界遺産への「記載が適当」との評価結果が通知されました。そして、7月に開催された世界遺産委員会での決議を経て、正式に世界遺産に登録されることが確定しました。

「北海道・北東北の縄文遺跡群」は北海道、青森県、岩手県、秋田県の遺跡で構成されており、県域からは三内丸山遺跡(青森市)、小牧野(こまきの)遺跡(青森市)、是川(これかわ)石器時代遺跡(八戸市)、亀ケ岡(かめがおか)石器時代遺跡(つがる市)、田小屋野(たごやの)貝塚(つがる市)、大森勝山(おおもりかつやま)遺跡(弘前市)、二ツ森(ふたつもり)貝塚(七戸町)、大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡(外ヶ浜町(そとがはままち))の8カ所が含まれています。

縄文時代の世界遺産、三内丸山遺跡

青森の縄文遺跡でとくに知名度が高いのは三内丸山遺跡(さんないまるやま)でしょう。約35ヘクタールという広大な面積からは、今から5900年前~4200年前の竪穴住居跡や掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)が複数見つかり、日本最大級の縄文集落であったことがわかっています。

なかでも特筆すべきは、地面に穴を掘って柱を立てた建物跡(六本柱建物跡)で、長方形の大型高床建物の跡と考えられています。その柱穴は直径2m、深さ2mで、6本の柱は4.2mの等間隔であり、この時代にはすでに測量の技術が確立していたことが推測されます。

また、三内丸山遺跡から出土したマメ、ヒョウタン、ゴボウなどをDNA分析したところ、これらは栽培されたものであることが判明しました。2000点近い出土品のなかには、糸魚川(いといがわ)(新潟県)産のヒスイ製玉類、十勝(北海道)・男鹿(おが)(秋田県)・月山(がっさん)(山形県)・佐渡(新潟県)産の黒曜石を用いた石鏃(せきぞく)、久慈(くじ)(岩手県)産などの琥珀、八郎潟産(秋田県)の天然アスファルトなど、他地方からの遺物も数多く発見されています。この地方を中心とした広範な交易圏が存在していたようです。

>>>世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」について詳しくはこちら

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特別史跡 三内丸山遺跡

住所
青森県青森市三内丸山305三内丸山遺跡センター
交通
JR青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡行きで30分、三内丸山遺跡前下車すぐ
料金
観覧料=一般410円、高・大学生等200円、中学生以下無料、特別展の観覧料やもの作り体験に係る材料費は別途必要/(20名以上の団体で一般330円、高・大学生等160円)
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