更新日: 2024年1月12日
平城京~政争や疫病などの社会不安のなか、平城京に律令体制の中央集権国家が完成!
藤原京(ふじわらきょう)は10年で打ち捨てられ、710年、新たに平城京(へいじょうきょう)が建設され、奈良時代が始まります。唐(とう)都長安(ちょうあん)が新都のモデルとなった平城京は、住人の約7割を官人関係者が占める行政都市でした。政争や疫病などの社会不安が相次ぐなか、平城京に律令体制の中央集権国家が作られたのです。
目次
平城京とは
奈良時代は710(和銅(わどう)3)年の平城京(へいじょうきょう)遷都からはじまります。時の元明(げんめい)天皇は「四神(ししん)に守られた吉祥(きっしょう)の地」という理由で、藤原京(ふじわらきょう)から都を遷したとされます。しかし、平城京での政治は落ち着かないものでした。政争や疫病などの社会不安が相次ぐなかではありましたが、平城京に律令体制の中央集権国家が完成していきます。
平城京での政治~社会不安で動揺する日本
当時、国政の中心にあった長屋王(ながやおう)は729(神亀(じんき)6)年に謀反(むほん)の疑いをかけられ、自害に追い込まれます(長屋王の変)。その後、実権を握った藤原四子(ふじわらよんし)も、737(天平(てんぴょう)9)年に流行した天然痘(てんねんとう)にかかり、全員死去。
さらに740(天平12)年には九州の大宰府(だざいふ)に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)が中央政界に不満を抱き、反乱を起こしました。そうした不安定な社会情勢のなか、聖武(しょうむ)天皇は何度も遷都を繰り返し、彷徨を続けますが、仏教の力で国家に平安をもたらそうと考え、743(天平15)年に大仏造立の 詔(みことのり)を発します。
平城京の終焉~天皇の地位を狙った僧、道鏡
その後、政権を担うようになったのは藤原仲麻呂(なかまろ)。しかし、仲麻呂も孝謙(こうけん)上皇が道鏡(どうきょう)を寵愛(ちょうあい)しはじめると政権から締め出されてしまいます。道鏡は皇位継承を画策するまで増長しますが、769(神護景雲(じんごけいうん)3)年の宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)で失脚します。そして794(延暦(えんりゃく)13)年、桓武(かんむ)天皇による平安京(へいあんきょう)遷都で奈良時代の幕が閉じることになるのです。
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