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遷都の歴史:わずか5年だけ存在した近江大津宮(滋賀県)

奈良に平城京が置かれる前、大津に都がありました。わずか5年5か月の短い期間ながら、確かに日本の中心だったのです。時は7世紀。645年に日本最初のクーデターが起こります。当時は蘇我氏による独裁政治が横行しており、これに不満を持った中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子を暗殺し、新政権を樹立しました。

翌年、中大兄皇子は、公地公民制、班田収授制(はんでんしゅうじゅせい)、租庸調(そようちょう)の税制などを盛り込んだ「改新の詔(みことのり)」を公布します。いわゆる「大化の改新」です。これにともなって、奈良・飛鳥にあった都は難波に遷(うつ)されます。かと思うと、また飛鳥へ。しばらくの混乱期を経て667年、中大兄皇子は近江国の大津へ遷都。天智天皇(てんじてんのう)として即位を果たしました。

天智天皇によって造営されたこの京都は「近江大津宮」、あるいは「近江大津京」と呼ばれています。

遷都の行方:わずか5年後に飛鳥浄御原宮へ遷都

中大兄皇子はなぜ大津の地を選んだのでしょうか。この理由には諸説ありますが、当時の朝鮮半島情勢を鑑みて、という説が有力です。

しかし、この大津京遷都はあまり評判が良くありませんでした。畿内の外側にある大津は当時の人々にとってはただの田舎だったのでした。不審な火災も相次いでいたのです。

大津に都が存在したのはたったの5年5か月でした。671年に天智天皇が崩御すると、翌672年には天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ)と弟・大海人皇子(おおあまのみこ)による後継争い「壬申の乱」が勃発。争いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造営し、天武天皇として即位しました。

遷都の歴史:日本初の本格的な都城・藤原京から平城京へ(奈良県)

藤原京は、律令国家を目指す天武天皇とその皇后であるのちの持統天皇によって整備されました。中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的な都城です。

持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都。大宝律令が制定され従来とは異なる新たな国家体制が整いつつありましたが、わずか16年で幕を閉じ平城京へ都を移すことになりました。

遷都の行方:藤原京から平城京へ

その理由は都に住む役人が増えて手狭になったためといわれていましたが、近年の発掘調査により藤原京は平城京をしのぐ規模だったことが分かりました。では一体なぜ遷都されることになったのでしょうか。

その契機となったのは、大宝2(702)年、30年以上ぶりに再開した遣唐使による報告でした。中国の理念をもとに造った藤原京は、当時最先端だった唐の長安とは全く異なっていたということが分かったのです。藤原京の造営は遣唐使が中断していた時期と重なり、最新の都城について知ることができませんでした。藤原京と、その後遷都された平城京の構造を比較すると違いが見えてきます。2つの都を比べ分かってきたこととは何でしょうか?

遷都の歴史:恭仁京と長岡京の仮遷都後に、平安京へ(京都府)

794年に平安京が造営されて以来、皇居が移されるまで京都は天皇のお膝元であり続けました。じつは平安京の前にも、2度の仮遷都が行われていたのご存じでしょうか?

奈良時代、平城京では戦乱や天災、疫病が頻発しました。そのため聖武天皇(しょうむてんのう)は740年に新都の建設を計画します。災いで穢(けが)れた旧都から新都に移り、国を清浄化しようと考えたのです。場所は山背国(やましろこく)(山城国)相楽郡(さがらぐん)(木津川市)の加茂盆地

遷都の行方:恭仁京の建設は進んだが、計画は中断

聖武天皇は加茂盆地の環境をとても気に入り、新都として恭仁京(くにきょう)の建設が741年からはじまりました。同年3月までには内裏ができ、翌月には貴族への移住命令が出されていました。

ところが、翌742年になると聖武天皇の関心は仏殿建設と難波宮(なにわのみや)に向けられてしまい、新都建設は事実上中断。744年の難波京遷都も天皇の重病で中止され、都は平城京にとどまったのです。

遷都の行方:長岡京から平安京へ

次に遷都が実行されたのは、桓武天皇(かんむてんのう)の時代です。天智天皇(てんじてんのう)の皇統であった桓武天皇は、天武天皇(てんむてんのう)系が治めてきた平城京に代わる都を建てることで権力を誇示しようとしました。そこで選ばれたのが、長岡京です。新都の場所が決められ、784年から造営工事は本格化します。工事は半年ほどで終わり、同年11月に桓武天皇が長岡に入って、遷都は事実上成功したはずでした。

ところが、785年に造営工事の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、この事件に連座したと認定された早良親王(さわらしんのう)が憤死します。これを境に疫病が大流行。早良親王の怨霊の仕業と恐れた桓武天皇は長岡京の都の放棄を決め、新たに平安京が造営されることになったのです。

疫病と、それを導いた怨霊を払うための遷都。これらを鎮めるための地形が整っていなくてはなりません。風水に基づいて造営されていたという説もある平安京。2度の仮遷都を詳しく見てみましょう。

遷都の歴史:平清盛が断行した遷都・福原京(兵庫県)

平安時代の末期、朝廷の有力者となっていた平清盛は、1161年から大輪田泊の港湾を本格的に整備しました。平清盛は中国大陸の宋(そう)との貿易に力を入れており、宋から来た大型船が停泊できるように港を拡充したのです。

平清盛は藤原氏など平家と敵対する勢力が多い京都を離れ、自分の外孫である安徳天皇をともなって福原への遷都を断行します。この新首都・福原京の正確な位置は不明ですが、東は宇治川から西は妙法寺(みょうほうじ)にかけての範囲と推定されています。ですが、遷都時の福原は道路も家屋もほとんどない荒れ地で、平家の者ですら一部は野宿同様となります。しかも、山と海に挟まれた地形なので大きな都を築くことはできませんでした。

遷都の行方:約半年間の福原京への遷都と平清盛の構想

平安京から福原京への移転を命じられた貴族の多くは反発し、平家一門の間からも非難が続出したため、約半年で遷都は取りやめとなり、清盛は平安京に帰還しました。

それまでの都であった平城京や平安京は内陸に位置していましたが、平清盛は貿易港と都が接する環境をつくり、海洋国家として日本を発展させる構想を考えていたのでしょう。しかし、源頼朝義経兄弟に敗れ、清盛の夢は残念ながら未完に終わりました。

遷都の歴史:明治維新!江戸改め、東京遷都(東京都)

明治新政府が目指したものは中央集権国家の樹立でした。
欧米の列強国に追いつくため、新しい制度を次々と実行し、首都は東京に置かれました。

新しい国をつくる事業を進めていく中、首都をどこに置くかについては紆余曲折がありました。新政権内部でもいくつか案があり、大坂遷都、江戸遷都の2案、公家層を中心に京都を都として継続する案がありました。

遷都の行方:東京遷都への決め手とは

最後に東京に決定したのは次の点からでした。まず、地理的に日本の中央部におく必要があること、そして東京湾が軍事・経済的に利用価値が高いこと。江戸の地形は大坂・京都に比べて将来性が見込め、すでにある市街地が大坂に比べて大きい。さらに大名屋敷を新政府の役所、首都建設に必要な施設に利用できるということでした。

そして慶応4(1868)年7月、天皇が江戸を東京と改称する詔勅を発し、同年9月に元号が明治になりました。その後、中央集権国家の首都、東京が23区になるまでの歩みも合わせて見てみましょう。

遷都構想:大久保利通も提案した大阪都構想(大阪府)

2015年、大阪市を5つの特別区に分割し大阪府と再編する、いわゆる「大阪都構想」をめぐって住民投票が行われました。僅差で否決されましたが大きな話題となりました。じつは、さかのぼることおよそ150年前、もう1つの大阪都構想がありました。こちらは文字どおり大阪を日本の首都にする、壮大なプランでした。

1868年1月、王政復古(おうせいふっこ)を成しとげた明治新政府は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に勝利を収めます。ちょうどこのころ、政府内では遷都(せんと)についての議論が起こっていました。明治政府が新しい世で目指したのは、天皇を中心とした国家体制です。そのためには、これまで公家や女官に囲まれ非政治的な存在であった天皇のあり方を刷新する必要がありました。そこで京都の因習を断つべく考えられたのが、遷都という手段。候補地となったのが大坂です。

遷都構想の行方:大阪行幸を行い、江戸改め東京遷都へ

大坂を推したのは薩摩藩士で明治維新の立役者の1人である大久保利通(おおくぼとしみち)。陸海の交通の便が良いこと、港があり外交の窓口に適していること、そして攻守の見極めに有利な地形であることなどを理由としました。しかし、この遷都計画は早くも暗礁に乗りあげました。多くの公家が「遷都計画は薩長が政権を牛耳るための陰謀」と猛反発したのです。

また、「幕末の四賢侯」と呼ばれた山内容堂(やまのうちようどう)や松平春嶽(まつだいらしゅんがく)らも、遷都案が一部の人間だけで練られたことに強い不満を持ちました。そのため、大久保も遷都でなく、一時的に天皇が出向く「行幸」という形で妥協せざるを得なくなりました。

行幸はおよそ40日で終わりましたが、天皇が京都を離れるのはおよそ500年ぶりのこと。その後、4月に江戸無血開城が実現したことで、新政府からは「関東の政情を安定させるべく首都を江戸に置くべき」といった声が高まり、大久保もこれに賛同しました。そして1868年7月には、江戸から名を改めた東京への遷都が決定し、大坂都構想は幻となったのです。

遷都構想:群馬も候補!?歴史の中の遷都論争(群馬県)

四方八方へ高速道路と新幹線が整備されており、群馬はさながら交通の十字路です。日本のほぼど真ん中に位置しているため、東西南北どこへ向かうにしても都合がいいのです。

この恵まれた立地と交通は、歴史のなかでも何度か為政者に注目され、遷都(せんと)論争が巻き起こると群馬の名がたびたびあがりました。大正12(1923)年の関東大震災後、第二次世界大戦の時。そして古くは明治19(1886)年に、井上馨(いのうえかおる)外務大臣らが「上州遷都論」を提案。井上は新都の立地条件として「内陸にあり海から攻められにくい」、「水源が豊かで給排水施設が建設しやすい」ことに加え、「平地で四方に交通の便が開かれている」点を挙げています。

遷都構想の根拠:あらゆるインフラが整備されている

交通の要衝として栄えた群馬は、江戸時代からの街道が縦横に走り、利根川の水運が発達、鉄道が四方に伸びました。遷都の議論が出たことはむしろ当然だったのです!

交通インフラの原型ができたのは江戸時代のことです。関ヶ原の戦いを制して江戸幕府を開いた徳川家康は、全国を支配するために江戸と各地域を結ぶ五街道の整備に着手。さらに土地の大名が脇往還(わきおうかん)という五街道の支線をつくりました。

そうして群馬には、新町から坂本まで7つの宿場を県内に持つ中山道(なかせんどう)、新潟方面に抜け長岡・寺泊(てらどまり)にいたる三国街道(みくにかいどう)、日光東照宮に参拝するための日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)と、いくつかの脇往還(会津、下仁田、信州など)がつくられました。

これらの道筋は現在の高速道路、鉄道、国道、県道と概ねオーバーラップしています。中山道が信越本線下仁田道が上信越自動車道三国街道が関越自動車道日光例幣使街道が北関東自動車道といった具合です。そのほかにも優れた水運網、明治時代に発展した鉄道交通網など魅力的なインフラがそろっていたのです。

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