更新日: 2024年6月11日
遷都は安寧の世を願い、都を遷すこと。繰り返されきた遷都には必然性があった
遷都、現代でいえば首都機能移転問題。今日も様々な角度から問われている難題のひとつです。古代には、天皇が変わる度に遷都が行われている時期がありました。また、当時の権力者の理想を追って断行した時代もありました。さあ、遷都のおもな歴史を見ていきましょう。
目次
遷都の歴史:幻の難波宮(大阪府)
大阪城公園の南側にあり、NHKの大阪放送局がある法円坂(ほうえんざか)一帯は、かつて 「難波宮(なにわのみや)」と呼ばれる日本の首都でした。
最初に、この地に都がつくられたのは652年。蘇我(そが)宗家が中大兄皇子(なかのおおえのみこ)一派に滅ぼされた645年の乙巳(いっし)の変のあと、難波への遷都が決まりました。これが解体されたのが奈良時代末の784年とされているので、難波の地は150年以上も、形式上は首都だったことになります。
遷都の行方:火災で焼け落ちた後も再建され、副都として活用
難波宮(難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや))は686年の火災で一度焼け落ち、約40年も放置されていました。再建は726年とされているので、王宮は事実上、2度設けられたことになります。このことから焼失前の難波宮を「前期難波宮」、奈良時代の難波を「後期難波宮」と区別することもあります。
655年の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)への遷都後も、660年の朝鮮半島出兵時に天皇が本拠にするなど第2の首都として扱われていました。火災で首都機能を失ったあとも、宮が放棄されたわけでもなく、699年に文武(もんむ)天皇が行幸したように、皇室とのつながりは深いままでした。
その後、幾度も修復計画が出ましたが実行はされず、ようやく再建されたのが726年。構造は礎石に柱を立てる方式に変更され、内裏も平城京のデザインを基礎としました。744年には短期間ですが日本の首都に返り咲き、平城京への再遷都後も第2の首都である 「副都」として政治や大陸外交の拠点として活用されていました。
そんな後期難波宮も784年の長岡京(ながおかきょう)遷都で解体され、役目を終えることになります。
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