更新日: 2024年1月12日
弥生人の社会~ムラができ、クニがつくられ、首長が集落をまとめていた
水田稲作の拡大とともに、生活や社会が変化が訪れます。多くの人が集まり、「ムラ」ができました。ムラが集まると、「クニ」が形成され争いが頻発し、環濠(かんごう)集落という自衛集落がつくられることになりました。
目次
弥生人の社会
弥生時代、水田稲作が本格的に広まるにつれて、生活や社会が劇的に変化しました。稲作をはじめとする農耕は共同作業が多いため、人々は稲作に適した低地や平野部に集まって暮らすようになったのです。すると「ムラ」と呼ばれる集落が誕生し、弥生時代中期には集落をまとめる首長が登場するようになります。
当時の人々は縄文時代同様、竪穴住居に住んでいましたが、高位の人物が住んでいたと考えられる高床住居もありました。食事は米や小麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、小豆(あずき)などの雑穀(ざっこく)を雑炊(ぞうすい)のようにして食べていました。一方で、狩猟、採集、漁労も引き続き行なわれていました。
やがて食糧などをめぐる集落同士の戦いが起こりはじめると、周りを水濠(すいごう)や空濠(からぼり)で囲んで外敵の攻撃を防ぐ環濠集落がつくられます。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)や板付遺跡(福岡県)、池上曽根(いけがみそね)遺跡(大阪府)などが大規模な環濠集落の代表例で、それらは都市的性格を備えていました。そうしたなか、力をもった集落は周辺の集落を統合し、「クニ」と呼ばれる小国を形成していきます。クニは日本各地につくられ、中国の史料には末盧(まつら)国、奴(な)国、伊都(いと)国といったクニの存在が記されています。また、強力な首長は自らの権威を誇示するため、土を盛った墳丘墓をつくりました。
弥生人の遺跡:池上曽根(いけがみそね)遺跡 大阪府和泉市・泉大津市
弥生時代中期頃の池上曽根遺跡は吉野ヶ里遺跡と同じく、日本でも屈指の大規模環濠集落です。
吉野ヶ里遺跡の面積が約50haなのに対し、池上曽根遺跡は約60ha。集落の中央に存在する巨大な掘立柱建物は東西19・2m、南北6・9mと、弥生時代最大規模の建築物とされています。その周囲には祭りの場があり、環濠の周辺には人々の住まいが密集していました。最大規模の建造物は約80畳の広さがあり、階下は人が集まる場、階上は神の宿る部屋となっていました。
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