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聖徳太子がしたことの功績まとめ

【冠位十二階の制定】
役人の序列を改め、個人の能力を優先した人材登用を促進。冠位がひと目でわかるように冠の色と濃淡で位を判別できるようにしました。
【十七条憲法の制定】
日本初の成文法。役人や貴族が守るべき道徳的規範を17条にまとめました。儒教や仏教の思想も盛り込まれています。
【仏教文化の振興】
仏教を積極的に受け入れ、仏教を根幹に据えた国づくりを推進。その結果、飛鳥文化が花開くことになりました。
【史書の編纂】
天皇家の系譜を示す『天皇記』や日本の歴史書『国記』などの史書の編纂に、蘇我馬子とともに取り組んで完成させました。
【遣隋使の派遣】
小野妹子に代表される使者を隋に派遣。遣隋使たちは仏教文化をはじめとする大陸の先進的な文物を日本にもたらしました。

聖徳太子が即位しなかった理由

聖徳太子は、父である用明天皇が亡くなったときに即位してもおかしくありませんでした。しかし当時は幼すぎたせいか、皇位を継承することはなかったのです。その後、崇峻天皇が暗殺された際にも即位の可能性がありましたが、豪族同士の思惑が錯綜(さくそう)し、太子ではなく推古天皇が擁立されました。

聖徳太子ゆかりの地:法起寺(ほうきじ)奈良県斑鳩(いかるが)町

厩戸皇子の一族は奈良県北西部の斑鳩一帯を拠点に活動していました。現在、その地に立っているのが現存最古の三重塔で有名な法起寺。秋になると、周囲にコスモスが咲き乱れます。

聖徳太子ゆかりの地:法起寺(ほうきじ)奈良県斑鳩(いかるが)町

法起寺

住所
奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
交通
JR大和路線王寺駅から奈良交通国道横田行きバスで16分、法起寺前下車、徒歩3分
料金
拝観料=大人300円/

【聖徳太子は実在したのか:従来説】徳太子は超人的能力をもち、数多の功績を残したスーパーヒーローである

聖徳太子の功績は枚挙にいとまがなく、超人的な言い伝えも数多く残されています。聖徳太子の超人伝説を見てみましょう。
馬小屋の前で生まれた」「母の胎内にいたときから言葉を発し 、2歳で念仏をとなえた」「幼少時に多くの学問を修め、高僧の域に達した」「10人の訴えを同時に聞き分けることができた」「叔母の天皇即位を予見するなど、未来を予知できた」「聖徳太子が亡くなると、太陽や月が輝きを失ってしまった」
まさに、スーパーヒーローといったところです。

【聖徳太子は実在したのか:最新説】聖徳太子は創作された人物であり、実在はしなかったのではないか?

ところが、この古代史屈指の英雄が実在しなかったという「太子虚構説」が少し前から勢いを増しているのです。

聖徳太子の本名は厩戸皇子といい、この人物が実在したことは間違いないようです。
ただし厩戸皇子は有力な王族の一人でしかなく、聖徳太子という偉人格は『日本書紀』の編纂者が創作したものでしかない、と歴史学者の大山誠一氏は述べています。『日本書紀』編纂の舵取りをつとめたのは藤原不比等(ふじわらのふひと)。不比等が娘婿の首皇子(おびとのみこ)(のちの聖武(しょうむ)天皇)の権威を高める目的で、あるいは父の中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)が参加した大化改新(たいかのしん)を正当化するために蘇我氏の対抗馬に立てようとして、太子を創作した可能性などが指摘されています。

さらに、旧一万円札などの高額紙幣に使われていた太子の肖像画にも疑惑が生じています。笏(しゃく)をもち、二人の王子を従えたあのおなじみの姿が太子ではないというのです。肖像画の原本は『唐本御影(とうほんみえい)』といい、もともとは法隆寺に所蔵されていました。しかし、いつどのような経緯で法隆寺に伝来したのかわからないうえ、服装などの時代考証がおかしいといった問題があり、別人説が唱えられているのです。やはり聖徳太子は虚構の人物だったのだろうか。真相が気になるところです。

【聖徳太子ゆかりの法隆寺:従来説】現在の法隆寺は創建当時のものか、再建されたものかはっきりしない

【聖徳太子ゆかりの法隆寺:従来説】現在の法隆寺は創建当時のものか、再建されたものかはっきりしない
法隆寺のなかでは珍しい平安建築の大講堂

聖徳太子ゆかりの寺院のひとつに法隆寺(ほうりゅうじ)があります。607年に太子が斑鳩宮(いかるがのみや)に建てたと伝わり、斑鳩寺(いかるがでら)ともいわれます。

世界最古の木造建築としても有名で、1993(平成5)年には世界遺産に登録されました。この法隆寺については長年、再建説・非再建説論争が続いています。『日本書紀』に「法隆寺は670年に落雷を受けて全焼した」という記載があるのですが、再建の記述がどの史料にも見当たらないため、現在の法隆寺は創建当時のものか、再建されたものかをめぐり、論争が繰り広げられてきたのです。

【聖徳太子ゆかりの法隆寺:最新説】焼けた壁画片などが見つかり、再建されたものである可能性が極めて高くなった

再建論者が『日本書紀』の全焼記事を論拠にするのに対し、非再建論者は西院伽藍(さいいんがらん)の配置が古い様式(法隆寺式)であることなどを論拠に反論していました。そうしたなか、1939(昭和14)年に西院伽藍南側の若草伽藍(わかくさがらん)を発掘した結果、2つの新事実が判明することになります。

伽藍配置が現在の法隆寺式より古い四天王寺式となっていること、現在の伽藍より西へ傾いていることで、ここから現在の法隆寺(西院伽藍)は一度焼失した後、少し位置を変えて再建されたと考えられるようになったのです。さらに2004(平成16)年には、若草伽藍の溝跡から焼けた壁画片などが発見されました。こうして法隆寺は再建されたものであることがほぼ確定し、論争は決着へと近づいたのです。

法隆寺の歴史

601年 聖徳太子が斑鳩宮をつくる
607年 太子が斑鳩宮に法隆寺を建立
622年 太子が亡くなる
670年 火災により、法隆寺が焼失 【このとき「法隆寺の建物は一舎も残らず焼けた」と伝えられてきた】
711年 この頃、法隆寺(西院)が再建される
718年 行基が西円堂を建立
739年 行信が夢殿を建立。これを中心に東院がつくられる
746年 橘夫人が『大般若経』などを東院に施入
925年 講堂や鐘楼などが焼失
990年 大講堂などが再建される

法隆寺

住所
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
交通
JR大和路線法隆寺駅から奈良交通法隆寺参道行きバスで5分、終点下車徒歩3分
料金
西院伽藍内、大宝蔵院百済観音堂、東院伽藍内(共通券)=大人1500円、小学生750円/

聖徳太子が派遣した遣隋使。隋の皇帝を激怒させるほどの国書を使者にもたせた理由

聖徳太子の業績のなかで忘れてはならないものがもうひとつあります。遣隋使の派遣です。倭(わ)の五王以来、中国への遣使は百数十年にわたり途絶えていましたが、太子は600年から618年までに5回遣使しました。

『隋書(ずいしょ)』によると、第1回の遣隋使は何らかの失態をおかしたようで、皇帝から日本が朝鮮諸国より未開な国だと認識されてしまいます。そこで朝廷は急ピッチで中央集権化を進め、遅れを取り戻そうとしました。推古朝でのさまざまな国政改革の背景にはそうした事情があったのです。

607年、次の遣隋使として送り出されたのは小野妹子。このとき太子は隋と対等の立場での外交を目指し、妹子に「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、日没(ひぼっ)する処の天子に書を致(いた)す」とはじまる国書をもたせました。これを読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、臣下(しんか)の礼をとらないことに激怒。国交断絶となってもおかしくない事態となります。

しかし当時、隋は高句麗(こうくり)と対立しており、日本が高句麗側につくことを恐れたため、煬帝は日本に使者を送り、国交を継続しました。翌年には小野妹子が再び隋に渡ります。高向玄理(たかむこのくろまろ)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)なども同行し、隋の最新知識を学びました。

遣隋使が往来した経路

遣隋使では主に北路がとられ、朝鮮半島に沿って進んでいきました。南路は途中に島がなく危険度が高いため、あまり使われませんでした。

倭としては朝鮮半島情勢に振りまわされることなく、また冊封を受けることもなく、隋と外交関係を樹立したい。不安定だった朝鮮半島情勢のさなかで、遣隋使によって隋の先進的な文物が日本へもたらされたのでした。

『地図でスッと頭に入る古代史』好評発売中!

淡路島の銅鐸、蘇我氏や大王家の古墳など21世紀に入ってからも新発見が相次ぎ、注目を集め続ける日本の古代史。その歴史を解くカギは限られた文献と、神話と出土品のみであるため、未だ解明されない謎が多いのです。
そもそも日本人がどのように生まれたのか、天皇家がどのように誕生したのかも判然としません。

こうした古代史を読み解く上で、もうひとつ重要な鍵となるのが地図。日本人の成り立ちも、縄文人の生活も、地図を読み解くことによって明らかとなります。さらには日本最初の都が飛鳥に生まれた理由や京都盆地が都建設地に選ばれた理由も当時の豪族の勢力圏から浮き彫りに。古代史のトピックを解説しながら、これらにまつわる謎を地図によって読み解きます。

第1章 縄文・弥生時代

【縄文・弥生時代の流れ】 大陸から日本へやってきた人々がクニをつくり各地で戦争を繰り広げる
【日本への長い道】 何のために、どんなルートを通り、日本へたどり着いたのか?
【縄文人の生活】 高度な技術で多様な道具をつくり、危険をおかして遠距離を移動!
【戦争のはじまり】 中国の史書が記す「倭国大乱」はいったいどこで起こったのか?

~クローズアップ古代史~
稲作がはじまったのは弥生時代ではなく、縄文時代だった!
曹操の墓で発見された鉄鏡が邪馬台国の九州説の裏づけになる?

第2章 古墳時代

【古墳時代の流れ】 ヤマト政権による統一が進むとともに各地に築造されていく巨大な前方後円墳
【倭の五王】 中国に使者を送り続けた5人の王 彼らの正体を明らかにする
【巨大古墳の登場】 前方後円墳はヤマト政権のシンボル それが全国につくられた意味とは?

~クローズアップ古代史~
日本最大の前方後円墳は仁徳天皇の陵墓でない!

第3章 飛鳥時代

【飛鳥時代の流れ】 朝鮮半島から日本へ仏教が伝わり、中大兄皇子のクーデターで大化改新が実現
【崇仏論争】 仏教を受け入れるか拒絶するか……激化する蘇我氏と物部氏の争い
【大化改新】 天皇中心の中央集権体制を目指し、新政権がいよいよスタートを切る
【天武天皇の政治】 律令体制が次第に整い、日本がようやく「国」になった!

~クローズアップ古代史~
聖徳太子が建立した法隆寺の現在の建物は再建されたもの?
大化改新は虚構ではなく、確かに大きな改革が行われていた!

第4章 奈良時代

【奈良時代の流れ】 政争や疫病などの社会不安が相次ぐなか、平城京に律令体制の中央集権国家が完成!
【遣唐使派遣】 命の危険をおかして中国に渡った留学生たちが唐で得たものとは?
【聖武天皇と鎮護国家】 仏教で社会不安を鎮めようとした聖武天皇の篤き願い
【平安京遷都】 長岡京の建設中に決まった平安遷都 なぜ桓武天皇は心変わりしたのか?

~クローズアップ古代史~
平城京では「破斯清通」という名のペルシア人が働いていた!?
奈良時代の人々も知恵を絞ってさまざまな疫病対策を試みていた!

[監修者] 瀧音能之(たきおとよしゆき)

1953年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒、博士(文学・早稲田大学)。
現在、駒澤大学教授。日本古代史、特に『風土記』を基本史料とした地域史の研究を進めている。主な著書に『風土記と古代の神々』(平凡社)、『古代日本の実像をひもとく出雲の謎大全』(青春出版社)、『出雲大社の謎』(朝日新聞出版社)などがある。

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