更新日: 2024年1月12日
遣唐使の派遣~命の危険をおかして中国に渡った留学生たちが、唐で得たものとは?
遣唐使の派遣は630年から894年まで、約20回にわたり計画されました。遣唐使船での渡海は命がけ。唐だけでなく、渤海(ぼっかい)とも使節のやりとりをしていました。
目次
遣唐使とは
日本と唐は663年の白村江(はくそんこう)の戦い以降、関係を悪化させていました。留学生(るがくしょう)が唐で政治制度や最新の文化を学ぶ遣唐使も、しばらく途絶えていた時期があったのです。
しかし、702(大宝(たいほう)2)年、約30年ぶりの遣使が行なわれることになりました。このときは貴族の粟田(あわた)の真人(まひと)らが派遣され、大宝律令(たいほうりつりょう)の完成、律令体制の進展、「日本」という国号への変更などを宣言して2年後に帰国し、それ以降も遣唐使は継続されることになります。
遣唐使船での渡海は決して安全ではなく、常に遭難の危険と隣り合わせでした。しかし、遣唐使がもたらす最新の文物は日本の発展にとって欠かせないものであり、多くの留学生が命がけで海を渡ったのです。留学生(僧)のなかには吉備(きび)の真備(まきび)や玄昉(げんぼう)のように、帰国後、中央政界で活躍した者や、空海(くうかい)や最澄(さいちょう)のように最新の仏教知識をもち帰り、日本独自の宗派を開いた者もいます。
また、日本は渤海という国とも盛んに使節のやりとりをしていました。渤海とは、7世紀末に中国東北部に建国された国。遣唐使より費用や渡海の危険性が小さかったため、10世紀まで、互いに使節を派遣しあっていました。
主な遣唐使・同行者
第1回630年 犬上御田鍬など
第2回653年 吉士長丹など
第3回654年 高向玄理
第4回659年 坂合部石布
第5回665年 守大石など
第6回667年 伊吉博徳
第7回669年 河内鯨
第8回702年 粟田真人など
第9回717年 玄昉・吉備真備など
第10回733年 平群広成など
第11回746年 中止
第12回752年 藤原清河など
第13回759年 高元度
第14回761年 中止
第15回762年 中止
第16回777年 佐伯今毛人
第17回779年 布勢清直
※遣唐使船の航路は、最初は北路にとっていましたが、新羅との関係が悪化すると危険な南路をとるようになりました。
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