更新日: 2024年1月12日
山口淑子(李香蘭)~3つの名を持ち歌手から女優、政治家へ
秀でた語学力と類い稀まれな美貌、声楽教育によって磨かれた美声を持ちあわせた山口淑子。
さらには幼少期から異なる人種が共に生きる環境に身を置いた体験が、中国と日本、さらにはアメリカにまで進出して活躍する稀有(けう)な女優への成長を促しました。
ジャーナリスト、政治家に転身してからは、母国と祖国の間で揺れながら苦悩し続けた経験が、戦争を憎み、苦しい境遇を強いられている人々に寄り添おうとする活動の原動力となったのでした。
目次
「李香蘭」は時代が生んだスター。 日中の狭間で感じた苦悩
山口淑子、李香蘭(りこうらん)、シャーリー・ヤマグチ。歌手・女優として3つの名を名乗りましたが、それは彼女自身が望んだものではありませんでした。
山口淑子は北京で学生の排日デモが起きた翌年、旧満州の奉天(ほうてん)近郊で生まれました。11歳のときに満州事変が勃発。人が血を流す惨状を目のあたりにしました。奉天に移ると、幼なじみの誘いで声楽を習い始めます。また、親しい家族同士で儀礼的な養子縁組をする風習から、「李香蘭」の名を得ています。
声楽教師の縁で、ラジオで『満州新歌曲』を歌い歌手デビュー。その後、反日の気運が充満している北京へ移り、日本人であることを隠して生活することになりました。ところが、父の友人の紹介で映画の吹き替え用に歌うだけのはずが、そのまま映画に出演させられる展開に。満州映画協会との専属契約が結ばれ、18歳で女優「李香蘭」となったのです。
日満親善女優使節として初めて日本へ赴きますが、中国人と思われて差別を受け、胸を痛めます。しかし翌年、日本映画『白蘭(びゃくらん)の歌』で大役を演じ、李香蘭は中国人女優として日本でも人気を確立していったのです。
「李香蘭」の当時の人気ぶりを物語る「日劇七回り半事件」
1941(昭和16)年2月11日の紀元節(のちの建国記念日)に、東京の日劇でワンマンショーを開催した時のことです。早朝からチケットを求めて並ぶ人々に、建国式典で皇居へ遙拝に訪れた人なども加わり、人の列が劇場を7周半するほどの大群衆に。けが人も出るほどの事態になったといいます。
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