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広岡浅子~「九転十起」で激動の時代を駆け抜けた女傑

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月12日

広岡浅子~「九転十起」で激動の時代を駆け抜けた女傑

広岡浅子には先見の明があり、炭鉱事業、銀行、生命保険事業に日本でいち早く着手し、成功を収めました。
当時、江戸時代の名残がはびこる男性社会では、女性蔑視、男尊女卑の壁に阻まれ苦労も絶えなかったはずです。それでも自ら尖兵となり、聡明さと優れた決断力、そして行動力によって、女性でも社会の最前線で仕事ができることを証明したのです。

その女性実業家としての経験を通して、広岡浅子は女性の地位向上にも努めます。日本女子大学校設立への尽力もその一環でした。

広岡浅子は男尊女卑の不条理が反骨心を育み、嫁ぎ先で実業家の一歩を踏み出す

広岡浅子が誕生したのは、幕末の動乱が始まる前。京都の豪商の娘であり、暮らしに不自由はありませんでした。子どものときから向学心にあふれていたが、当時、女子は男尊女卑の考えから学問が許されず、13歳の頃には親から読書禁止を命じられます。

16歳で豪商の親同士が決めた相手、両替商「加島屋」の次男・広岡信五郎と結婚。学問しかり、何事も人に運命を決められる女性の哀れな境遇が、「他人に頼らない」反骨心を育みます。一方で、夫は女性蔑視の思考がなかったため、広岡浅子は思うがままに読書に励み、簿記や算術などを貪欲に学びます。

明治時代に入ると、新政府の法令「銀目停止」により銀の価値が大暴落。両替商の商売は打撃を受け、さらに廃藩置県の発令で藩への貸付金までほぼ踏み倒されて、加島屋は存続の危機に瀕することになります。しかし広岡浅子は怯ひるまず、資金の回収、借金返済猶予の交渉のため各地を奔走。嫁売り道具も売りさばき、なんとか倒産を逃れると、そこから炭鉱ビジネスへと乗り出していくのです。

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