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鹿鳴館はなぜ閉鎖されたのか?~外交交渉の舞台として輝いたのはわずか4年 123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

鹿鳴館はなぜ閉鎖されたのか?~外交交渉の舞台として輝いたのはわずか4年

日本外交史に鹿鳴館を舞台にした豪華絢爛な時代がありました。外国との不平等条約を解消するための鹿鳴館外交といわれたが、短期間で終焉を迎えることになります。

鹿鳴館とは

鹿鳴館(ろくめいかん)というと、外交官ら上流階級の日本人男女が、西洋の盛装をして舞踏している絵が連想されます。当時の日本人の服装とはかけ離れ、市民はどこかさめた目で見ていて、現実の世界との乖離が大きいものでした。 明治16(1883)年7月、麹町区内山下町(現在の千代田区内幸町)に、壮麗な煉瓦造2階建て洋館の鹿鳴館が完成しました。

建物は、日本に数多くの実績を遺したイギリス人建築技師ジョサイア・コンドルが設計し、建坪はなんと410坪で、2階の広間が舞踏会場です。食堂、ビリヤード室、奏楽室など社交のための施設のほか、外国からの賓客が宿泊するための客室もありました。コンドルはほかにも、高輪の三菱開東閣、三田綱町の三井倶楽部、ニコライ堂などを手がけ、辰野金吾ら建築家を育てました。コンドルは日本文化に傾倒し、絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)に弟子入りするほどでした。

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