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鎌倉時代の始まり:源平合戦

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…。有名な、『平家物語』の冒頭です。平清盛が築き上げた平家一門の繁栄に陰りが差し始めたのが、1180(治承4)年4月に発生した以仁王(もちひとおう)(後白河法皇の第三皇子)の挙兵です。以仁王の挙兵自体は早々に鎮圧されたのですが、各地で決起した源氏軍は衰えませんでした。特に素早かったのが、信濃国木曽(しなののくにきそ)で挙兵した木曽義仲です。木曽義仲は平家軍を打ち破り北陸から京都に迫ります。1183(寿永2)年7月25日、平家一門は木曽義仲に追い出される形で、京都を離れることとなります。

その後、後白河法皇は巧妙に源頼朝に接近し、平家物語などで知られる「壇ノ浦の合戦」へと至ります。源平合戦の最後の舞台となる壇ノ浦までの歴史を詳細に辿っていきましょう。

鎌倉時代:源頼朝の治世~鎌倉幕府誕生~

1192(建久3)年、平家を打倒し征夷大将軍となった源頼朝は、鎌倉に幕府を開きました。本格的な武家政権の誕生です。約150年続く鎌倉時代ですが、初代「鎌倉殿」頼朝の治世は、征夷大将軍拝命からわずか9年ほどでした。開府前の状況からも当時の状況が見えてきます。

鎌倉時代(頼朝の治世):開府前~頼朝による坂東の平定

伊豆(静岡県伊豆市)で挙兵した頼朝は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)で敗北を喫したあと、海路で安房国(あわのくに)(千葉県)まで逃れ、坂東武士の協力を仰いで体勢を立て直します。そして1180( 治承4)年10月、富士川の戦いで平家に勝利しました。

そのまま西上するかに見えた頼朝でしたが、まずは坂東平定に乗り出します。このとき頼朝は常陸国に入り、平家に加担していた佐竹氏を征伐するのでした。それまでに佐竹氏が領していた常陸国の奥七郡は没収され、常陸国は鎌倉幕府の御家人によって支配されることになったのです。

鎌倉時代(頼朝の治世):開府前~鎌倉幕府と下野御家人の関係

およそ400年続いた平安時代も末期となり、朝廷のある都では、平氏が権勢を誇っていました。そして1180(治承(じしょう)4)年、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は、源頼政(みなもとのよりまさ)とともに兵を挙げて平家に挑みますが、その軍はあえなく鎮圧されました。しかし、この時に発せられた平家追討を命じる以仁王の令旨(りょうじ)は、全国に点在する源氏の武士たちにもたらされ、平家討つべしとの気運が急速に高まっていきます。源平合戦の時代の幕開けです。

下野(しもつけ)国では、足利氏と小山氏が武士団の二大勢力となります。小山氏は、中世の下野武士を代表する存在でした。小山氏は、源平の争いにおいてもいち早く源頼朝の側につき、その陣営に参加。名声をあげていくのです。足利氏といえば、鎌倉幕府における関東有数の御家人であり、のちに室町幕府を開いた足利尊氏(たかうじ)を輩出した名門として有名です。しかし鎌倉幕府成立以前、下野には2つの足利氏があったことは、意外に知られていません。

鎌倉時代(頼朝の治世):開府前~源頼朝と武蔵武士の関係

平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵の国には大小さまざまな武士が存在しましたが、①秩父氏の流れをくむ武士、②武蔵七党に属する中小の武士、③その他の武士と、おおまかに3系統に分類できます。そしてこれら武蔵国の武士集団を総称して「武蔵武士」と呼びます。

1180(治承4)年、源頼朝が伊豆国で挙兵すると、ほとんどの武蔵武士は源頼朝に従いました。挙兵直後の源頼朝は、石橋山の戦い(神奈川県小田原市)で敗れたのち安房に渡り、そこから上総・下総を制して武蔵国に入っています。このときに頼朝を最初に出迎えたのが足立氏で、そのため頼朝が鎌倉入りした直後には、武蔵武士で最初に本領を安堵されています。また、桓武平氏の秩父氏一族も源氏の頼朝に加担し、平清盛父子の伊勢平氏政権を打倒しました。このようにして、鎌倉幕府の樹立後、多くの武蔵武士が幕府の御家人など要職に取り立てられたのです。

鎌倉時代(頼朝の治世):鎌倉に幕府を開いた理由

理由のひとつに、鎌倉は父祖ゆかりの土地だった点が挙げられます。源頼朝から5代前の源頼義(よりよし)は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(京都八幡市)を鎌倉の由比郷(鎌倉市材木座一丁目付近)に鶴岡若宮として勧請し、これがのちに鶴岡八幡宮となります。

第二の理由としては、鎌倉は要害の地であったことも大きいでしょう。そして第三の要因として、鎌倉が交通の要衝であったことも忘れてはなりません。じつは、2度移転している鎌倉府の所在地も一緒に、土地の利について見ていきましょう。

鎌倉時代(頼朝の治世):奥州合戦

藤原秀衡は平家とのつながりをもち、その後援を受けて1181(養和元)年には地方武士として初めて国主(陸奥守)に任じられました。そのいっぽうで、源氏の子息(源義経)を養育しており、中央の政争には中立的な立場を維持していました。藤原秀衡の政治的手腕のおかげで源平の争乱に巻き込まれることはなく、藤原秀衡の代に奥州藤原氏は最盛期を迎えます。

しかし、1185(文治元)年に源頼朝(よりとも)と対立した源義経が平泉に落ち延びてくると、藤原秀衡は源義経をかくまうことに。源頼朝との関係が険悪になるなかで、1187(文治3)年に藤原秀衡は急逝してしまいます。

奥州藤原氏の支配力を危惧した源頼朝は、全国の御家人を動員し、28万もの大軍を擁して奥州攻めに乗り出します。かくして約100年続いた奥州藤原氏は滅亡しました。

鎌倉時代(頼朝の治世):源義経の悲劇的な人生

源義経の足跡や言い伝えは、義経伝説とまで言われて各地に残ります。義経は、源頼朝とは母違いの兄弟でした。平治の乱で父・義朝が敗死したため、牛若丸と名付けられ京都にある鞍馬寺へ預けられますが、僧になることを嫌がり、奥州藤原氏の庇護を受けました

頼朝の初挙兵の際には義経が馳せ参じ、兄弟は対面を果たしたといわれますが、それまでの義経の人生に関する史料はなく、不明な点が多い人物でもあります。頼朝に命じられ、従兄弟関係の木曽義仲を討つも頼朝に討ち滅ぼされてしまった人生はどのようなものだったのでしょうか。

鎌倉時代(頼朝の治世):大河兼任の乱

源頼朝は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼします。ですが、奥州藤原氏の旧臣は、鎌倉政権に対して従順に従うものばかりではありませんでした。

奥州合戦の終結からわずか3カ月後の同年12月、鎌倉政権に反抗する勢力が挙兵するに及んだのです。当初、反乱軍を率いる首謀者は、死んだはずの「伊予守(いよのかみ)義経」(源義経)とか「朝日冠者」(木曾義仲(きそよしなか)の嫡男)と称し、出羽国海辺庄(山形県酒田市・東田川郡)や山北郡(せんぼくぐん)(仙北郡)で挙兵し、鎌倉政権を動揺させました。この首謀者の正体は、八郎潟(はちろうがた)東岸の大河(五城目町大川)を本拠とする豪族の大河兼任(かねとう)でした。一説には陸奥国津軽地方の豪族ともされていますが、藤原泰衡(やすひら)の郎党であったことは間違いありません。

鎌倉時代(頼朝の治世):千葉氏と源義朝・頼朝との深いつながり

中世の房総半島で一大勢力を築いたのは、桓武平氏(かんむへいし)の千葉氏です。桓武平氏とは桓武天皇の血を引く氏族で、平安時代中期に坂東(ばんどう)(関東)に下向して武家となった平良文(たいらのよしふみ)を祖とし、関東の各地で有力武士団を形成していきました。その代表格を「坂東八平氏(ばんどうはちへいし)」とも呼びます。

千葉氏は源義朝(みなもとのよしとも)と主従関係を結び、保元(ほうげん)の乱(1156年)と平治(へいじ)の乱(1160年)では義朝の指揮下で戦いました。しかし、義朝が平治の乱で敗死すると、千葉氏も影響力を失ってしまいます。やがて1180(治承4)年、義朝の子である源頼朝 (よりとも)が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで敗北した頼朝は、房総へと落ち延びました。このとき千葉氏も上総氏も頼朝の呼びかけに応じ、平家政権打倒のために戦うことになります。

しかしその最中、上総氏は頼朝への謀反を疑われて失脚。千葉氏は源平合戦や奥州合戦で手柄を立てて所領を拡大すると、上総氏没落後の上総国にまで勢力を広げるのでした。千葉氏は鎌倉に本拠を構えるよう頼朝に進言するなど、鎌倉幕府内でも重要な地位を占めていきます。

鎌倉時代:源頼家の治世

鎌倉時代(頼家の治世):1201年 建仁の乱

源頼朝によって平家政権が打倒されると、城長茂は頼朝の寵臣・梶原景時(かじわらかげとき)を頼ります。源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦で活躍して鎌倉の御家人となりますが、1199(建久10)年に源頼朝が没し、1200(正治2)年に梶原景時が討たれる(梶原景時の変)と、城長茂は後ろ盾を失ってしまいます。そして1201(建仁元)年、城長茂は鎌倉幕府に対して反乱を企て、京で討伐されるのでした(建仁の乱)。

>>>建仁の乱についてくわしくはこちら

鎌倉時代:北条執権の世・蒙古襲来(元寇)

3代目の「鎌倉殿」源実朝が暗殺されると、執権北条氏は幼児だった藤原頼経(ふじわらのよりつね)を4代目として迎えました。これで、北条氏が本格的に幕府の実権を掌握することになるのです。

鎌倉時代(北条執権):宝治合戦 

三浦氏は源頼朝の挙兵に応じたことで、鎌倉幕府が開かれてからは御家人となり、幕府の要職に就きました。しかし、執権北条氏と権力闘争を繰り広げた結果、宝治合戦(ほうじかっせん)(1247年)に敗北。三浦氏宗家は滅亡します。

宝治合戦の折、三浦氏の傍流ながら執権北条方に加担したのが佐原盛時(さわらもりとき)です。合戦終結後、盛時は三浦半島南部に勢力を築きます。この三浦氏佐原流が水軍の拠点としたのが、三浦半島南端の油壺に築かれた新井城(三浦市三崎町)です。三浦氏佐原流は、1331年に足利尊氏が挙兵する(元弘(げんこう)の乱)と足利方に与して戦い、鎌倉幕府滅亡後は相模国や武蔵の国の地頭となっていくのです。

鎌倉時代(北条執権):蒙古襲来(元寇)

時は文永11(1274)年秋、元と高麗の大軍が軍船約900艘で、対馬や壱岐を攻略し、さらに大宰府占領のため博多湾の中央部付近から上陸しました。元軍は上陸地点近くに陣を構え、博多湾岸の各所で戦闘を繰り広げますが、結局決着はつかないまま数日のうちに元軍は博多湾を去りました。短期間とはいえ、鎌倉武士は元軍の集団戦法毒矢「てつはう」と呼ばれる炸裂弾に苦戦を強いられたようです。なお、この戦を歴史上「文永の役」といいます。

この戦いののち再度の元軍の襲来に備えて、博多湾岸約20kmにわたって鎌倉幕府が御家人に命じて築造した石積みのバリアが、当時「石築地(いしついじ)」などと呼ばれ、現在の「元寇防塁」です。

元寇防塁築造から5年後の弘安4(1281)年夏、ついに元軍の再度の遠征である「弘安の役」が起きました。この際の元をはじめとする南宋および高麗の連合軍の軍勢は、軍船4500艘、兵員14万人といわれていますが、この元寇防塁によって博多湾からの上陸を阻まれました。元軍は7年前に目にした海岸線と大きく異なる景色に驚き、上陸を諦めざるを得なかったことが想像できます。なお、この後両国は攻防を繰り広げますが、長崎県の鷹島付近に集結した元軍を暴風雨が襲い、退却を余儀なくされたことが伝わります。

鎌倉時代:北条執権 末期

2度にわたる蒙古襲来、1293年の鎌倉大地震などから、鎌倉幕府は衰退に向かっていきます。そこへ天皇親政を行いたい朝廷との関係がもつれることで、滅亡への道が整うのです。

鎌倉時代(末期):南北朝の動乱が勃発

鎌倉時代末期、幕府打倒を目指す後醍醐天皇が笠置山で挙兵します。朝廷が京都の北朝と奈良吉野の南朝に分裂し、50年以上も対立が続くことになる南北朝の動乱です。

当時の朝廷内では、「持明院統(じみょういんとう)」と「大覚寺統(だいかくじとう)」という二大皇統が交互に皇位を継承するルールがありました。大覚寺統の後醍醐天皇は、自分の血統による継承権の独占を狙い、ルールを決めた鎌倉幕府の打倒を計画します。幕府は皇位継承に大きな影響力をもっていたので、これを倒さない限り、皇統の独占は実現できないと考えたからです。

戦いに敗れた後醍醐天皇は翌年3月に隠岐へと流されることになります。最初に挙兵した笠置山の戦いから歴史をたどってみましょう。

鎌倉時代(末期):鎌倉幕府を倒した新田義貞

鎌倉幕府を倒した新田義貞(にったよしさだ)は、上毛かるた「歴史に名高い」と誇らしげに詠まれている地元のヒーローです。新田荘(にったのしょう)(現・太田市)に生まれたのは正安 2(1300)年頃。家柄は源氏の名門である清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲んでいます。同じく清和源氏で、後にライバルとなる足利尊氏(あしかがたかうじ)とは親戚でした。しかしながら政治的に鎌倉幕府に重んじられ、幅を効かせる足利氏と比べ、新田氏は名門ではありましたが無位無官と冷遇されていました。

鎌倉幕府のトップである北条高時(ほうじょうたかとき)らを自害に追い込み、見事に討幕を成し遂げた新田義貞。挙兵してからわずか15日間のできごとはどのように進んでいったのでしょうか。

鎌倉時代(末期):鎌倉幕府滅亡後の房総半島

1333(元弘3・正慶2)年、新田義貞が鎌倉を攻め落として鎌倉幕府は滅亡します。室町幕府が開かれると、再び日本の政治の中心地は京に移りますが、室町幕府は関東10カ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、伊豆、甲斐)を統治するための出先機関として鎌倉府を設置します。こうして房総の3カ国は、鎌倉府の長官である鎌倉公方(くぼう)に従うことになります。

ところが、鎌倉公方は独立心が強く、幕府や関東管領(かんとうかんれい)(鎌倉公方の補佐役)とたびたび衝突し、そのたびに房総の国人領主たちは主君の動向に翻弄されていくのです。

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