更新日: 2024年1月13日
鎌倉時代を深める。150年続く鎌倉幕府は、おおよそ執権北条氏の治世だった
鎌倉時代、鎌倉幕府は源頼朝が興したものですが、源氏の直系は3代のみ。
頼朝死後の2代目以降は、ほぼ北条氏が執権として政権を掌握しました。
北条氏のもとで本格的に稼働した武家政権とは、どのような歴史を辿っていったのでしょうか。
鎌倉時代の概要
伊豆で挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)は、父祖伝来の地である鎌倉を拠点としてまず関東を制圧し、壇ノ浦(だんのうら)の戦い(1185年)で平家政権を打ち倒します。さらに、奥州合戦(おうしゅうかっせん)で奥州藤原氏を攻め滅ぼし鎌倉の政権を安定化させると、1192年には征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられました。
鎌倉は幕府のお膝元として政治と軍事の中心地となり、交通の利便性も相まって、この時代の中心的な位置づけとなりました。征夷大将軍のことを「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼称していたことからも、その影響力の大きさがわかるでしょう。
しかし、源頼朝を祖とする源氏将軍は、源実朝(さねとも)が暗殺されたことにより、わずか3代で途絶してしまいます。代わって政権を担ったのは執権の北条氏でした。北条氏は源氏将軍の時代から幕府内で有力御家人として台頭し、次々と政敵を排除し執権政治を確立していました。とはいえ、北条氏はもともと伊豆を拠点とした小豪族であったことから、ほかの有力御家人を従えるほどの威光は有していませんでした。そこで執権北条氏は、名目上の将軍には由緒ある血筋の者を立て、ほかの有力御家人の不満を封じ込め、幕府の実権は執権北条氏が握っていたのです。
こうした執権北条氏の独裁政治は、やがて反発を招くようになります。後醍醐天皇による討幕運動が始まると、有力御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府を離れ、1333年には新田義貞(にったよしさだ)が若宮大路の御所を攻撃し、鎌倉幕府は滅びます。そして室町幕府が京に開かれ、政治の中心は再び西国に移っていったのです。
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