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日本の遺跡:東北

三内丸山遺跡:世界遺産の縄文遺跡(青森県)

青森県域には数多くの縄文遺跡が存在します。とりわけ三内丸山遺跡は、縄文時代の人々の暮らしを現代に伝える重要な遺跡です。そして、かつて冷涼な青森県には稲作を中心とする弥生文化はなかったとされていました。それを覆し、弥生時代の存在を示す遺跡が県内各所で発見されています。

三内丸山遺跡は、1992(平成4)年から始まった発掘調査で発見された。約35ヘクタールという広大な面積からは、今から5900年前~4200年前の竪穴住居跡や掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)が複数見つかり、日本最大級の縄文集落であったことがわかっています。なかでも特筆すべきは、地面に穴を掘って柱を立てた建物跡(六本柱建物跡)で、長方形の大型高床建物の跡と考えられています。その柱穴は直径2m、深さ2mで、6本の柱は4.2mの等間隔であり、この時代にはすでに測量の技術が確立していたことが推測されます。また、出土品からは、この地方を中心とした広範な交易圏が存在していたことがうかがわれます。山内丸山遺跡をはじめ青森の多くの遺跡から当時の暮らしぶりが分かってきています。

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特別史跡 三内丸山遺跡

住所
青森県青森市三内丸山305三内丸山遺跡センター
交通
JR青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡行きで30分、三内丸山遺跡前下車すぐ
料金
観覧料=一般410円、高・大学生等200円、中学生以下無料、特別展の観覧料やもの作り体験に係る材料費は別途必要/(20名以上の団体で一般330円、高・大学生等160円)

里浜貝塚:遺跡から見える豊かな松島(宮城県)

国内には、縄文時代の特徴である貝塚が約3000カ所あります。そのうち、宮城県内にあるのは約210カ所。そのうち約70カ所が松島湾付近に集中しているといわれています。なかでも有名なのが、松島湾内の宮戸島にある国史跡「里浜(さとはま)貝塚」です。「奥松島縄文村歴史資料館」では、里浜貝塚など松島付近に点在する遺構を中心に、約6000年前から弥生時代に至るまでの縄文人の暮らしと文化を紹介しています。

貝塚では貝殻のほか、鳥や魚の骨なども発掘されています。そのほか、丁寧に埋葬された人骨や犬の骨なども発見されており、現在でいうゴミ捨て場とは少し意味合いが異なりそうです。もしかすると食物も含め、いのちあるものすべての葬送の場であり、再生を願う場であったのかもしれません。

奥松島縄文村歴史資料館

住所
宮城県東松島市宮戸里81-18
交通
JR仙石線野蒜駅からタクシーで15分
料金
入館料=大人400円、高校生300円、小・中学生150円/(20名以上は団体割引適用可、身体障がい者手帳、療育手帳持参で割引あり)

伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石:世界遺産の縄文遺跡(秋田県)

2021(令和3)年7月「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に決定しました。対象となるのは北海道6カ所、青森県8カ所、岩手県1カ所、そして秋田県の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)(鹿角(かづの)市)と伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡(北秋田市)の2カ所です。

大湯環状列石は、米代川(よねしろがわ)の支流である大湯川の左岸、標高180mの中通台地上に位置しており、ふたつの環状列石(野中堂環状列石、万座環状列石)を主体としています。環状列石はストーンサークルとも呼ばれ、大小のさまざまな石を環状に配置したものを指します。どちらも同心円状に二重の環(外帯と内帯)を形成しており、野中堂環状列石の最大径は44m、万座環状列石の最大径は52mで日本最大級です。

もういっぽうの伊勢堂岱遺跡は米代川と小猿部川(おさるべがわ)の合流点近くの河岸段丘上にあり、同じく縄文時代後期の遺跡です。4つの環状列石が発見されており、大湯環状列石とは異なり、さまざまな種類の石が使用されています。隣接する沢からは、土偶やキノコ形土製品なども出土しており、環状列石を中心として儀礼や祭礼が行われていたものと推測されます。なお、環状列石からやや離れた場所からは、日時計状組石も見つかっています。

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押出遺跡・西ノ前遺跡:縄文クッキーと立像土偶で知られる(山形県)

山形平野北部から尾花沢盆地にかけての最上川流域では数多くの縄文遺跡が発見されています。とくに注目したいのが押出遺跡(おんだしいせき:東置賜郡高畠町)です。押出遺跡は約5800年前にできた低湿地遺跡です。「水漬け」になっていて空気にさらされなかったため、通常なら腐食してしまうような植物性遺物も良好な状態で保存されており、さながら「縄文のタイムカプセル」と呼ぶにふさわしい様相を呈していました。この押出遺跡からは、炭化した「縄文時代のクッキー」が発見されました。

縄文時代中期の西ノ前遺跡(最上郡舟形町)からは、合計48点もの土偶が出土しました。そのなかには、高さ45㎝という国内最大級の立像土偶が存在していたのです。妊産婦を表現したと思われるこの土偶は8頭身の美しいプロポーションから「縄文の女神」の名で広く知られるようになり、2012(平成24)年には国宝の指定を受けています。

福島の製鉄遺跡:全国有数の古代製鉄関連遺跡(福島県)

太平洋の荒波が打ちつける浜通り地方には、北は阿武隈川河口から南はいわき市薄磯(うすいそ)にかけての広範囲にわたり、浜砂鉄(はまさてつ)が分布しています。川を伝って海に流れ出た砂鉄が、波によって砂浜に打ち上げられて堆積したものを浜砂鉄と呼びます。波にさらわれることで自然の比重選鉱(ひじゅうせんこう)が行われ、より製鉄に向く砂鉄となったわけです。

そして1980年代以降の発掘調査の結果、浜砂鉄の分布地域にほぼ重なるようにして、古代の製鉄遺跡が発見されました。このあたりの地域は、古代には宇多(うだ)郡や行方(なめかた)郡と呼ばれており、7世紀後半から9世紀後半にかけて大規模な製鉄施設が集中的につくられました。武井(ぶい)地区製鉄遺跡群(新地町)からは22基、大坪地区製鉄遺跡(相馬市)からは13基、金沢(かねざわ)地区製鉄遺跡群(南相馬市)からは123基もの製鉄炉が発見されています。福島の製鉄遺跡からはその製鉄法の変遷が分かってきています。

日本の遺跡:関東

花輪台貝塚:「花輪台のヴィーナス」土偶が出土(茨城県)

茨城県域では、上君田(かみきみた)遺跡(高萩市)や山方(やまがた)遺跡(常陸大宮市)に代表されるように、県北地方の開けた台地上に旧石器時代の遺跡が多く見つかっています。やがて氷河期が終わって温暖化が進むと、世界的規模で海面が上昇します。これにより海面は現在よりもはるかに内陸まで入り込み、古代の関東平野には「香取の海」と呼ばれる広大な内海が出現します。

温暖で四季の変化に富んだ自然環境のもとで、内海や河川流域に次第に人々が定住し、狩猟採集生活を行ったため、海岸には数多くの貝塚がつくられました。このうち、花輪台貝塚からは、ヴィーナス型土偶が出土しています。この「花輪台のヴィーナス」は縄文早期のもので、同遺跡が存在した約9000~8000年前には縄文文化が花開いていたことがうかがえます。茨城県の古代史をのぞいてみましょう。

厩久保遺跡:遺跡が示した古代の東山道(栃木県)

ヤマト王権の都がまだ飛鳥(あすか)の藤原京にあった701(大宝元)年、日本ではじめて、律(りつ)(現在の刑法)と令(りょう)(現在の民法)、さらに行政のきまりをそろえた大宝律令が完成し、官僚機構を備えた中央集権国家が成立しました。これに合わせて、都と地方を結ぶ官道も整備されます。

官道は都を中心に、東海道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道、そして東山道の7つがありました。東山道は都を起点に、近江(おうみ)国、美濃(みの)国、信濃(しなの)国、そして上野(こうずけ)国をへて下野(しもつけ)国に至ります。そして、ここからさらに、道は陸奥(むつ)にまで達するのでした。

奈良時代の下野国における東山道の位置は大まかには推測されてきたのですが、比較的近年まではっきりとしたルートはわかっていませんでした。そんななか、1988(昭和63)年から翌1989(平成元)年にかけて、那須烏山市の厩久保遺跡(うまやくぼいせき)の調査で、東山道の跡が初めて発見されました。その後も各地の遺跡調査が進み、これら街道の遺構と国衙や寺院の位置から、7つある駅家の場所も、より正確に推定されるようになってきています。解明されてきた東山道のルート、当時の様子を見てみましょう。

岩宿遺跡:日本の旧石器時代を発見(群馬県)

岩宿遺跡は群馬県東部、みどり市笠懸町阿左美(かさかけちょうあざみ)にある旧石器時代の遺跡です。山を分断する切通しを中心としたエリアにあります。かつては火山灰が堆積した赤色の関東ローム層がむき出しになっていた場所です。本格的な発掘が行われたのは、昭和24(1949)年の秋。明治大学の杉原荘介(すぎはらそうすけ)らの本格的な調査により、1.8万年から3万年以上前の石斧や石のナイフなどが次々と発見されました。翌年の調査を含めて発見された石器の数は240点にのぼりました。古代の人々は石でつくられた道具で巨大なナウマンゾウなどを狩り、解体や木の伐採もしていたと見られます。

後にこの石器と岩宿遺跡は考古学の定説を塗り替える大発見と認められます。岩宿遺跡の発見は、第一発見者で世紀の発見をし、考古学への情熱を燃やし続けた相沢忠洋の半生抜きに語れません。

岩宿遺跡

住所
群馬県みどり市笠懸町阿左美2418-1
交通
JR両毛線岩宿駅から徒歩20分
料金
岩宿博物館=大人300円、高校生200円、小・中学生100円/岩宿ドーム=無料/(20名以上の団体は割引あり、障がい者と同伴者1名無料)

和銅遺跡:「和同開珎」はここから(埼玉県)

秩父鉄道の和銅黒谷(わどうくろや)駅(秩父市)から徒歩15分ほどの和銅山には和銅遺跡(和銅採掘露天掘跡)があります。この遺跡には、長さ130m、深さ3mほどの2本の溝状の露天堀跡が山頂まで続いています。和銅遺跡は文字どおり「和銅」発祥の地で、現在では「日本通貨発祥の地」と印された高さ5mの和同開珎の巨大モニュメントが建立されています。

なお、和銅とは精錬を必要としない自然銅のことで、それまで国内での採掘例はありませんでした。国内では紀元前300年頃(弥生時代)から銅剣や銅鏡などに銅が使用されていますが、いずれも中国大陸から渡来したものでした。ところが、元明天皇(在位707〜715年)の時代に武蔵国秩父郡で自然銅(ニギアカガネ)が発見されたのです。貨幣に秩父産が用いられた経緯と、これが広く流通した理由を見てみましょう。

和銅遺跡

住所
埼玉県秩父市黒谷1918
交通
秩父鉄道和銅黒谷駅から徒歩15分
料金
情報なし

大塚遺跡:完全形で発掘された環濠集落(神奈川県)

神奈川県を流れる鶴見川流域の川筋に沿った台地上には、弥生時代中期から後期にかけた遺跡が数㎞おきに点在しています。なかでも特筆に値するのが鶴見川支流・早渕川(はやぶちがわ)の中流域で見つかった大塚遺跡と歳勝土(さいかちど)遺跡(横浜市都筑区)です。

大塚遺跡では環濠集落(かんごうしゅうらく)が発見されたのですが、完全形で発見されたのは稀少なため、大いに注目を集めることとなりました。環濠集落とは周囲を溝で囲った集落のことで、大塚遺跡の外周には深さ2~3m、幅4~5mの大きな濠が巡らされていました。濠の内側には土塁が築かれ、そのさらに内側に縦穴住居跡が85軒、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡(高床式倉庫)10棟などがありました。濠でムラを守る必要があったということは、当時どのような暮らしがそこにあったのでしょうか。

田名向原遺跡:国内最古の住居状遺構(神奈川県)

相模原市中央区にある田名向原遺跡(たなむかいはらいせき)は、今から約2万~1万8000年前(後期旧石器時代末)の遺跡です。

一般的に、日本列島で定住生活が始まるのは縄文時代(1万8000年前~前4世紀)とされており、それまでは移動しながら狩猟採集生活を営んでいた人々が、石器時代の終わりから縄文時代にかけて、徐々に定住生活へと移行していきました。国内では1946(昭和21)年に岩宿(いわじゅく)遺跡(群馬県みどり市)が発見されて以来、おもに関東平野を中心に旧石器時代の遺跡が発見されるようになりましたが、住居跡はまだ発見されておらず、田名向原遺跡の住居状遺構(住居跡と考えられる遺構)は国内最古のものと考えられています。

すなわち、田名向原遺跡は、日本列島に暮らした古代の人々が移動生活から定住生活に切り替わる過渡期を象徴するような遺跡なのです。

日本の遺跡:中部

寺地遺跡・長者ヶ原遺跡:ヒスイ製の玉つくりの名産地(新潟県)

古代の新潟県域では、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)といった玉類の製作が盛んでした。原石に用いられたのは新潟県産のヒスイで、とりわけ国内における硬玉(こうぎょく)(ヒスイの一種)の露頭産地は糸魚川(いといがわ)と青海川(おうみがわ)上流の2カ所のみ。その周辺地域では、縄文時代から硬玉を原材料とした玉類が多くつくられてきました。
糸魚川市の寺地(てらじ)遺跡長者ヶ原(ちょうじゃがはら)遺跡などがその代表例で、これらの遺跡からは勾玉や小玉が出土しているだけでなく、未成形のヒスイ類も多量に見つかっています。このことから、これらの集落遺跡は玉類を製作していた「玉つくりのムラ」であったと考えられています。

大境洞窟住居跡:日本で最初に行われた洞窟遺跡の発掘(富山県)

氷見市大境(おおざかい)漁港の北側に位置する白山社(はくさんしゃ)。その本殿に覆いかぶさるように、大境洞窟住居跡があります。高さ約8m、幅約16mの海食洞窟で、縄文時代前期に形成されたものです。大正7(1918)年、白山社の改築工事の際に、人骨や土器、大きな石棒などが多数出土したことで発掘調査がおこなわれ、これが日本で最初の洞窟遺跡発掘調査となりました。

大境洞窟は、落盤によって地層がはっきりと分かれています。縄文土器を含む層が弥生土器を含む層よりも下にあり、このときまだ解明されていなかった縄文文化と弥生文化の新旧を決定づけるきっかけとなったため、大境洞窟は日本の考古学史に残る発見といわれています。

大境洞窟住居跡

住所
富山県氷見市大境駒首
交通
JR氷見線氷見駅から徒歩4分の氷見駅口バス停から加越能バス灘浦海岸方面行きで24分、大境下車、徒歩3分
料金
情報なし

真脇遺跡:イルカの骨にトーテムポール?!(石川県)

古墳は基本的に権力者の墓ですが、人々の暮らしの痕跡を知ることができる遺跡も存在します。能登町の真脇(まわき)遺跡は、北陸最大級の縄文遺跡です。なんといってもこの遺跡を有名にしたのは、約300頭ものイルカの骨です。頭骨から尾骨まであらゆる骨が出土しているのに、一頭丸ごと連なったものはありません。また、イルカ骨と一緒には、トーテムポールのような木柱が出土しているのです。この事実からどのようなことが考えられるのでしょうか。

真脇遺跡

住所
石川県鳳珠郡能登町真脇真脇遺跡公園内
交通
のと鉄道七尾線穴水駅から北鉄奥能登バス宇出津駅前行きで1時間、終点で北鉄奥能登バス珠洲方面行きに乗り換えて17分、縄文真脇温泉口下車、徒歩15分
料金
真脇遺跡縄文館入館料=大人300円、小・中・高校生150円/

杉久保遺跡:野尻湖のナウマンゾウを狩っていた!?(長野県)

野尻湖誕生(約7万年前)から現在まで湖底に堆積した、厚さ数mに及ぶ地層は野尻湖層と呼ばれています。この野尻湖層のうち約6万~3万8000年前の地層から、ナウマンゾウやヤベオオツノジカといった大型哺乳動物の化石日本最古の骨器(こっき)、剥片石器(はくへんせっき)などが出土。約4万3000年前の地層からは、骨器や剥片石器のほか、槍状木器(やりじょうもっき)、大型獣を解体したと考えられている場所(キルサイト)なども見つかりました。

ナウマンゾウ発掘地から近い野尻湖畔の杉久保(すぎくぼ)遺跡(上水内郡信濃町)からは、杉久保型ナイフ形石器なども発掘されています。この発見から、太古の大型獣と旧石器時代の野尻湖人の共存が推測されています。杉久保遺跡から、旧石器時代の人々の暮らしが見えてきました。

八ヶ岳周辺の縄文遺跡群:黒曜石に関する本州最大の遺跡(長野県)

山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳の山麓、中部高地には、黒曜石(こくようせき)の採掘に関する本州最大の遺跡があります黒曜石は火山が生み出した天然ガラスで、狩猟採集民族であった縄文の人たちの暮らしには欠かせないものでした。

八ヶ岳周辺の安道寺遺跡、殿林遺跡、一の沢遺跡、酒呑場遺跡などからは、黒曜石のほかにも多くの土器や土偶が見つかっています。縄文中期の土器は、華やかさや芸術性の高さが特徴です。土器には水の流れや森の草木、そして人や動物の姿がいきいきと立体的に描かれており、ここでは国内外でも類まれなる土器文化が発達していたといえます。鋳物師屋前遺跡(いもじやまえいせき)や津金御所前遺跡などの出土品には、母から生まれようとする子どもの顔や歌い踊るような人の姿も描かれており、まるで当時の生活の一部をそのままに伝えているようです。

女性、とりわけ妊婦を表現しているものが多いことも特徴的で、棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」は、縄文時代の遺物として初めて国宝に指定されています。

登呂遺跡:日本考古学の聖地(静岡県)

登呂遺跡が発見されたのは、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年。戦闘機のプロペラをつくるための軍需工場を建設する際に、土の中から土器や木製品などが偶然見つかったことに端を発します。戦後の本格的な調査の結果、12棟の住居、2棟の高床倉庫、8万㎡の水田跡が発見され、弥生時代後期にあたる約2000年前の稲作を中心とした集落の姿が明らかになりました。

のちの再発掘調査の結果から、登呂遺跡は洪水による被害を受けながらも、弥生時代後期から古墳時代初頭頃まで続いた遺跡だったこと、住居や高床倉庫のほかに祭殿が建てられていたこと、住まいの区域と水田の区域の境に水路がつくられていたこと、水田の大区画の中を小区画に分けていたことなど、新しい事実が次々と解明されました。

弥生時代の水田跡の遺構が確認されたのは日本で初めてのことであり、登呂遺跡の発見は“弥生時代=水田稲作”というイメージが定着する契機となりました。さらに、この登呂遺跡の発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足されるなど、学会の注目度も高く、戦後日本の考古学の発展に大きく貢献しています。

登呂遺跡

住所
静岡県静岡市駿河区登呂5丁目10-5
交通
JR静岡駅からしずてつジャストライン登呂遺跡行きバスで10分、終点下車すぐ
料金
情報なし

一の谷中世墳墓群:様々な種類の墓が集まる(静岡県)

一の谷中世墳墓群は、磐田市見付(みつけ)の北西にあった日本最大級の集合墓地です。今から800~400年(平安時代末から江戸時代の初頭)ほど前に造られたもので、小さな丘陵の上や東側の斜面を利用して、塚墓162基、土坑墓277基、集石墓429基、「コ」の字形区画墓20基と、4種類の墓が888基あり、火葬遺構も46か所見つかっています。同じ場所にさまざまな種類の墓が数多く造られているのは大変珍しいことだといいます。

愛鷹山付近の遺跡:独自に築いた旧石器文化(静岡県)

愛鷹山麓から箱根山麓にかけた地域では、1万年以上前の火山灰の地層中から打製石器を伴う旧石器時代の遺跡も多く発掘されており、古代人の足跡を確認できます。このうち、沼津市の井出丸山(いでまるやま)遺跡、長泉町の富士石(ふじいし)遺跡などでは、今から3万7千年前の打製石器群が発見されています。これらは静岡県内で確認できる最古の人間の生活の跡ではないかと言われています。

また、長泉町の富士石遺跡や三島市の初音ケ原(はつねがはら)遺跡八田原(やつたはら)遺跡などでは、約3万年前の配列された土坑の存在が確認されています。特に初音ケ原遺跡では、遺跡全体で総数71個の土坑が列状に丘陵地に分布しています。炉や土坑は、関東などでも確認されていますが、今のところこれほどまとまって確認されているのは静岡県のみであり、独自の旧石器文化を印象づけています。

朝日遺跡:東海では最大級の弥生遺跡(愛知県)

清須市から名古屋市西区にまたがる朝日遺跡は、縄文時代末期から弥生時代にかけて栄えた集落遺跡です。現在の地形とは異なり、当時この地域には河川が流れており、川の流れによって区切られた地域ごとに集落(北の区画、南の区画)や墓域(東西南北の墓地)が形成されていました。その全体は東西が約1.4㎞、南北は約0.8㎞に及ぶ広大な敷地を誇り、愛知県内はもちろんのこと、東海地方でも最大級の規模を誇る環濠(かんごう)集落でした。

朝日遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属器など無数の出土品が発見されており、弥生時代前期の象徴ともいえる「遠賀川式(おんががわしき)土器」(弥生時代前期)も見つかっています。朝日遺跡が出土品から縄文文化と弥生文化の交差点とされるのはなぜか、詳しく見てみましょう。

吉胡貝塚:出土品が学術的常識を覆す(愛知県)

愛知県内の縄文遺跡の代表格といえば、吉胡遺跡(よしごいせき)(田原市吉胡町)です。吉胡遺跡の場所は、蔵王山の南東、渥美半島の低地に接した斜面に位置しています。縄文時代後期末から晩期(2500年前~3000年前)にかけての貝塚遺跡であり、1922(大正11)年から翌年にかけての発掘調査では、土器や石器や貝類以外にも、300体を超える大量人骨が出土したことで世間の耳目を集めました。

同じく渥美半島には伊川津(いかわづ)貝塚(田原市伊川津町)や保美(ほび)貝塚(田原市保美町)といった同時期の貝塚遺跡があり、こちらでも多量の人骨が出土しています。何しろこの田原市から出土した人骨だけで、日本全国の縄文人骨のおよそ4割を占めるというのですから、吉胡貝塚周辺の遺跡の縄文研究への貢献度は計り知れません。その後の調査の結果、吉胡貝塚から出土した人骨が学術的常識を覆すことになりました。

遺跡から見える縄文・弥生時代の「東西文化の境界線」(愛知県)

肥沃な濃尾平野と三河湾に育まれた愛知県域には、旧石器時代から人々が生活をしてきました。約3万年前の旧石器時代後期には、現在の愛知県域にはすでに人類が生活をしていたと考えられています。県下では茶臼山遺跡(北設楽郡豊根村)、日吉原遺跡(豊川市)、萩平・加生沢(かせいざわ)・荒井の諸遺跡(新城市)、五本松遺跡(岡崎市)、酒呑(しゃちのみ)ジュリンナ遺跡(豊田市)、入鹿池(いるかいけ)遺跡(犬山市)、上品野(かみしなの)遺跡(瀬戸市)など数百カ所もの遺跡が発見されており、そこに人々の生活の痕跡が見て取れます。この痕跡から東西の境目ならではの、歴史の歩みが始まります。どのように分かれていったのでしょうか。

日本の遺跡:近畿

天児屋鉄山遺跡:たたら製鉄の痕跡を残す(兵庫県)

西播磨の内陸部は、古代から製鉄がさかんでした。『播磨国風土記』によると、讃容(さよう)(現在の佐用町)や宍禾(ししあわ)(現在の宍粟市)は、鉄の産地とされています。日本古来の製鉄法では、粘土を固めた製錬炉(せいれんろ)で大量の木炭を燃やして砂鉄を溶かしました。製錬炉は空気を吹き込むたたら(ふいご)を備えており、製鉄施設はたたら場と呼ばれました。

兵庫県宍粟市千種町の谷川に面する「天児屋鉄山遺跡(てんごやてつざんいせき)」は、400m四方もの広さがあり、鉄穴流しの設備や製錬炉のほか、木炭をつくる炭小屋、鉄製品をつくる鍛か冶じ場ばなど、たたら場の施設がすべてそろっています。これは各地にあるたたら場の遺跡でもめずらしく、2002年には県の史跡に指定されました。当時のたたら場と、鉄そのものを伝えていた鉄の道とはどのようなものだったのでしょうか。

鶴峯荘第1地点遺跡:サヌカイト原石を掘り出した日本最古の採掘坑(奈良県)

奈良盆地の北西部に位置する二上山(にじょうさん)は四季折々に優美な姿を見せ、その美しさは『万葉集』にも詠まれています。二上山周辺では、噴火によって噴出したマグマが冷えて固まり、火砕流や火山灰などが堆積して多くの火成岩が生み出されました。そのなかでも、サヌカイト凝灰岩(ぎょうかいがん)、金剛砂(こんごうしゃ)は、その後の人類の技術や文化の発展に大きな影響を与えた岩石といえます。サヌカイトはガラス質の石材で、安山岩の一種。数万年前頃の後期旧石器時代から弥生時代にかけて石器の石材として利用され、人類初期の文明をもたらしたともいえる岩石です。

二上山の北側で見つかった鶴峯荘第1地点遺跡ではサヌカイト原石を掘り出した採掘坑が見つかりました。詳しく見ていきましょう。

日本の遺跡:九州・沖縄

板付遺跡:日本最古の水田(福岡県)

板付(いたづけ)遺跡は九州で最初に稲作が伝わったといわれている、日本最古の農耕集落のひとつで福岡市博多区板付2・3丁目、福岡空港にほど近い住宅街の中にあります。

昭和25(1950)年の発見を受け、板付遺跡では昭和26(1951)年から4か年にわたり、日本考古学協会による本格的な発掘調査が開始され、板付の台地上をめぐる溝が発見されました。
深さ1m以上、Ⅴ字形の溝からは、夜臼式土器と板付式土器が一緒に出土し、日本種の炭化米も見つかりました。その後、昭和43(1968)年、明治大学が中心となった発掘調査の結果、Ⅴ字形の溝が台地の高所を一周することが確認され、弥生時代前期初頭の環濠集落であることが分かりました。

板付遺跡

住所
福岡県福岡市博多区板付3丁目21-1
交通
JR博多駅から西鉄バス板付行きで20分、板付団地第二下車、徒歩3分
料金
無料

金隈遺跡:弥生人の姿を解き明かす(福岡県)

金隈遺跡は福岡市の東南端、標高30mの丘の上にある弥生時代の大墓地で、昭和43(1968)年の春に発見されました。その後、昭和57(1982)年にかけて3回にわたる発掘調査が行われました。金隈遺跡の発掘調査では、弥生時代前期後半(約2300年前)から弥生時代後期初め(約2000年前)までの甕棺墓348基をはじめ、土壙墓(どこうぼ)119基、石棺墓2基、合計469基の墓が見つかっています。金隈遺跡は、北部九州で弥生時代に形作られた集団墓地の典型的なあり方を示しており、甕棺の中からは多くの人骨や貝輪が発見されたことから、弥生時代に生きた人々の姿や、遠方の地域との交流を研究する上でもっとも貴重な資料のひとつであり、昭和47(1972)年5月に国の史跡に指定されています。

また、金隈遺跡からは合計136体の人骨が発見されました。成人の骨は99体、未成人の骨は37体でしたが、子どもの死亡率はさらに高かったと推測されています。発見された平均身長や顔立ちなどの詳細からどのようなことが分かったのでしょうか。

須玖遺跡群:奴国最大級の遺跡(福岡県)

福岡県春日市は「奴国」の中心地であったといわれています。それを裏付けるように市内からは王墓や当時の最先端技術である青銅器工房が見つかっています。

奴国(なこく)」は、中国の歴史書に初めて名前が記された日本のクニです。西暦57年には「漢委奴国王」と刻まれた金印を中国の光武帝から授けられ、弥生時代が終わる頃には人口が2万世帯余の大国だったことでも知られています。その所在は、大陸交流の玄関口である福岡平野一帯が定説となっており、福岡平野では中央部を北流する御笠川、那珂川流域で、弥生時代の大小さまざまな遺跡が発見されています。その中でも春日市の須玖(すぐ)遺跡群は、「奴国」最大級の遺跡です。この須玖遺跡群の中で特に注目されるのは、王墓の存在と、青銅器、鉄器、ガラス製品の生産工房が集中する点です。この事実から窺える奴国の様子、大陸との関係を詳しくみていきましょう。

平原王墓:新説!卑弥呼の墓は伊都国にある!?(福岡県)

中国の史書『魏志倭人伝』には、当時、「」と呼ばれていた日本列島にあった30余りの国々の様子が記されています。その記述の中にある、女王「卑弥呼」が都とした国「邪馬台国」がどこにあったのか?九州か畿内か?といった、多くの謎が残されており、現在でも活発な論争が繰り広げられています。

そして女王・卑弥呼の墓はどこにあるのか。近年、新たな説が提唱されるようになってきました。それは、共立された女王である卑弥呼は、彼女を共立した国々の中のひとつの国の王であり、都とした邪馬台国ではなく別のどこかの国の出身である可能性もあるのではないか、つまり卑弥呼の墓は必ずしも邪馬台国にあるとは限らないのではないか?という新しい説です。

女王・卑弥呼の出身は伊都国であり、卑弥呼は亡くなったあと、伊都国の地に戻され埋葬されたのではないかとする新しい説が提唱されています。仮に伊都国に卑弥呼の墓があったと想定した場合、もっとも有力な候補になるのが福岡県糸島市有田にある平原王墓です。その解釈にいたる根拠とはいったい何でしょうか。

原の辻遺跡:東アジアの一大交流拠点(長崎県)

海を挟んで位置する九州と朝鮮半島は、縄文時代には交流があり、移民や土器が日本に入ってきていました。壱岐と対馬は、その海上交易ルート上に浮かぶ要衝の島。特に壱岐は、弥生時代に交易の中継拠点として栄え、当時の東アジアにおける最先端の人や物、情報が集まりました。

国の特定史跡に指定されている原の辻遺跡の発見・発掘によって、壱岐は2000年以上前に貿易拠点として繁栄していたことが明らかになります。原の辻遺跡があるのは、壱岐島東部の内海湾から幡鉾(はたほこ)川をさかのぼった場所で、長崎県内2番目の広さをもつ深江田原(ふかえたばる)平野。その中の丘陵上に、高床式建物や複数の竪穴式住居を三重の溝で囲んだ多重環濠集落の痕跡が見つかりました。紀元前2〜3世紀から3〜4世紀、弥生時代〜古墳時代初期の人々が住居を建て、交易を行って生活してきたとされる原の辻遺跡からはどのようなものが発掘されているのでしょうか。

原の辻一支国王都復元公園

住所
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092-5
交通
芦辺港から壱岐交通印通寺方面行きバスで30分、原の辻遺跡下車すぐ
料金
入園料=無料/火おこし体験=100円/勾玉づくり=200円/土器づくり=400円/ガラス玉づくり=300円/

鷹島神崎遺跡:元寇・神風の謎が、海底遺跡調査で判明?!(長崎県)

鷹島は鎌倉時代に2度にわたった元寇(げんこう)(蒙古襲来(もうこしゅうらい))の激戦地のひとつ。神風によって沈んだ元の軍船が残る「鷹島神崎(たかしまこうざき)遺跡」の調査で、戦いの詳細がわかってきました。伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸一帯に鷹島海底遺跡はあります。弘安の役から約700年後の昭和55(1980)年、東海大学を中心とする研究者が3年間の水中考古学の調査を行い、陶磁器やいかり、石弾などを多数採取しました。鷹島沖の海底に弘安の役関連の遺跡が存在することが明らかになり、鷹島海底遺跡として周知されました。以後、付近の海底調査が続けられ、1994年にはいかりが4つ並んで出土します。

さらに2011年、琉球大学の研究グループが、神崎免米ノ内鼻の沖合約200m、水深20〜25mの海底を約1m掘り下げたところで元の軍船を発見しました。船底の背骨に当たる「竜骨」と呼ばれる部分は、幅が約50㎝、長さは約12m。そこから推測される船の全長は、約27mになります。翌年3月27日、文部科学省はこの海域を「鷹島神崎遺跡」として、海底遺跡では日本初となる国史跡に指定しました。今後の研究によって、元寇と神風の新たな真実の解明が期待される鷹島海底遺跡。今分かってきている蒙古襲来の戦いの詳細とは。

大矢遺跡:縄文時代にもう稲作が行われていた?!(熊本県)

2005(平成17)7月には、熊本市教育委員会が、熊本県の指定遺跡になっている本渡市(現在の天草市本渡町広瀬)の大矢遺跡にある約5000~4000年前の地層から十数年前に出土していた土器に、稲もみの圧痕(あっこん)(長さ約3㎜、幅約1㎜)がついていたことを発表して、大きな話題となりました。圧痕とは、土器の製作中に稲もみなどが混ざってできる小さなくぼみのことです。このような圧痕については、1992(平成4)年に、岡山県総社市(そうじゃし)の南溝手(みなみみぞて)遺跡(縄文後期、約3500年前)から出土した土器についていた圧痕が最も古いとされていましたが、この大矢遺跡の圧痕の発見で、日本における稲作の起源がさらに500年以上、遡ることになったのです。

その出土品は、大陸や東日本の文化が複雑に影響していることを示しており、わが国の縄文時代の研究に欠かすことのできない、貴重な遺物を包蔵した遺跡として注目されています。当時の熊本の暮らしが見えてきました。

斉藤山遺跡:熊本は、弥生時代の鉄器の一大生産地(熊本県)

1955(昭和30)年、熊本県玉名市天水町尾田の斉藤山(さいとやま)遺跡から、弥生前期初頭の土器と共に鉄の斧の破片が発見され、紀元前3世紀頃には日本に鉄器が存在していたことが確認され、日本最古の鉄器とされていました。その後、1979(昭和54)年に発掘調査が始められた福岡県糸島郡二丈町(現在の糸島市二丈石崎)の曲田遺跡から、紀元前3~4世紀の板状鉄斧が発見され、日本最古の鉄器の座を譲り渡すこととなりますが、熊本県からは実に多くの鉄器が発見されています。『弥生時代鉄器総覧』によると、熊本県の弥生時代の鉄器の出土数は合計1607点にも及びます。この地で鉄器生産が発達した理由を調べていきましょう。

上野原遺跡:縄文時代初期、南九州にもあった縄文文化(鹿児島県)

北に霧島連山、南に錦江湾と桜島を一望できるロケーションに上野原遺跡(霧島市国分上野原縄文の森)があります。上野原遺跡は、1986(昭和61)年、工業団地(国分上野原テクノパーク)を造成中に発見。鹿児島県教育委員会によって1996年まで発掘調査が続けられ、2条の道跡とともに竪穴住居跡52軒、集石遺構(しゅうせきいこう)39基、連結土坑(れんけつどこう)16基が確認されたのです。

これらの遺跡は、約1万1500年前の桜島の火山灰の層の上から見つかりました。このうちいくつかの竪穴住居内の竪穴を埋めた土には、約9500年前に噴火した桜島の火山灰が混じっていたことがわかっています。このことから、上野原遺跡は、縄文時代早期前葉(約9500年前)に存在していた集落跡であると推測されています。集落の住居数もさることながら、集落跡の面積は1万5000㎡ほどと広く、発見当時には「国内最古級で、最大規模の定住集落跡」とされました。一般的には縄文文化は西日本より東日本で繁栄、いわば「東高西低(とうこうせいてい)」が定説とされていたわけですが、縄文時代の初期においては上野原遺跡の発見によりそれが覆されたことになります。

上野原縄文の森

住所
鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森1-1
交通
JR日豊本線国分駅からタクシーで20分
料金
入園料=無料/展示館=大人310円、高・大学生210円、小・中学生150円/アクセサリー作り=200円/(障がい者手帳持参で展示館入館無料、県内在住の70歳以上は証明書持参で展示館入館料無料)

高橋貝塚・広田遺跡:貝殻装飾文化と諸外国との交流(鹿児島県)

弥生時代になると、九州の北部で貝殻を素材とする円形の腕輪がつくられるようになります。これらの貝輪の素材は奄美以南の珊瑚礁に生息する貝なので、「南島産貝輪」と呼ばれています。吹上浜から広がる砂丘の端のシラス台地上にある高橋貝塚(南さつま市金峰(きんぽう)町)からは、加工途中の南島産の貝が出土しています。この地域で粗加工されたあとに九州北部へ運ばれたことがわかっており、同時にこの高橋貝塚からは、稲を刈る石包丁や朝鮮半島の影響を受けた石斧(せきふ)など、稲作とともに伝来した石器が見つかっています。

鹿児島県域の弥生遺跡としては、種子島南部の広田遺跡(熊毛(くまげ)郡南種子(みなみたね)町)も忘れてはなりません。広田遺跡は太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上に位置した、弥生時代後期から古墳時代(約1700〜1300年前)にかけての集団墓地です。広田遺跡からは4万点以上もの貝製の装身具が出土しました。前述の南島産貝輪のほかにも幾何学文(きかがくもん)が施された貝符(かいふ)、竜佩形貝垂飾(りゅうはいがたかいすいしょく)などが見つかっています。このような習俗や貝の装飾文化は本土では見受けられません。この事実が伝えるものとはいったいどのようなことでしょうか?

港川遺跡・サキタリ洞遺跡:サンゴ礁起源の石灰岩で守られた遺跡(沖縄県)

琉球列島にはサンゴ礁起源の石灰岩が広く分布しています。動物やヒトの骨は、本土のように火山灰からできた酸性の土では保存が難しいですが、中性や弱アルカリ性の石灰岩地帯では良質な保存状態の獣骨や人骨が見つかることがあります。

アメリカ施政権下の1967(昭和42)年、実業家・大山盛保(おおやませいほ)氏は那覇市より南方10㎞の具志頭村港川(ぐしかみそんみなとがわ)(現・八重瀬町)の雄樋川(ゆうひがわ)河口に近い石灰岩採石場で石灰岩の裂け目(フィッシャー)からイノシシの骨を発見します。さらに化石骨の採集を続けていくと、翌1968(昭和43)年に裂け目内の堆積物から人骨が出土したのです。港川人と呼ばれるこの人骨から見えてきたものはどのようなものでしょう。

サキタリ洞遺跡は、ガンガラーの谷(南城市)の一画にある旧石器時代以降の遺跡です。2014(平成26)年には約2万年前の人骨とともに、国内では初めて旧石器時代の遺跡から貝製の道具や装飾品が見つかりました。また、同年には、埋葬されたと思われる状態の約9000年前より前の人骨が、さらに2016(平成28)年には世界最古の釣り針が発見され、旧石器時代の人々の暮らしを知ることができる遺跡として注目を集めています。

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