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【河岸段丘のでき方】沼田の河岸段丘(群馬県)

四方を山に囲まれた沼田盆地を中心に、利根川、薄根川(うすねがわ)、片品川(かたしながわ)などたくさんの川が流れている沼田市。このうちの片品川に沿って巨大な階段のように7段の段丘が形成されているのが沼田の河岸段丘です。

沼田市の場合、「沼田面」と呼ばれる段丘面が約15k㎡と大規模なうえ形もはっきりしているため、学術的な価値がとても高く、典型的な河岸段丘として地理の教材にも取り上げられています。また、テレビなどでも紹介され、日本一美しい河岸段丘とも評されます。

【河岸段丘のでき方】最上川の河岸段丘(山形県)

最上川中~下流には、五百川峡谷(いもがわきょうこく)や最上峡(もがみきょう)という峡谷が刻まれています。五百川峡谷は、上郷(かみごう)ダム付近を境として上流部は川が直線的に流れますが、下流部には河岸段丘が発達し、川は曲がって流れる特徴があります。流路が明らかに異なる理由のひとつには、上流部は硬質な泥岩層(でいがんそう)、下流部はやわらかくて、水の流れが変わりやすいシルト層や砂岩層でできている点があります。最上川の河岸段丘は、山間部にある朝日町などに貴重な平地をもたらし、朝日町では集落のほとんどが段丘面上に築かれています

【河岸段丘のでき方】津南町の河岸段丘(新潟県)

信濃川と中津川の合流付近、新潟県と長野県の県境・津南町には、日本有数の河岸段丘が発達しており、その面積は町全域(約170㎢)の約2割を占めるほどです。

津南町では、約40万年前からの扇状地(せんじょうち)が信濃川とその支流によって侵食され、10面もの段丘が形成されています。信濃川の川底から最上面までの高低差は、500mにも達します。高い段丘ほど古く、平らな段丘面は、かつて川原だったところです。津南町の場合、段丘面は農地や集落、段丘崖は森林となっており、河岸段丘の上に発展した町だということがわかります。

【河岸段丘のでき方】相模野台地(神奈川県)

相模野台地は、西は相模川流域、東は境川に挟まれた県央部に広がる東西約2㎞、南北約34㎞の台地。台地の辺縁部には、北東部に多摩丘陵、西部に座間丘陵、南西部に高座(こうざ) 丘陵と、より高度のある丘陵が分布しています。

河岸段丘とは、河川の中下流域で見られる階段状の地形で、平坦面(段丘面)と崖(段丘崖(だんきゅうがい))からなります。その形成には地殻変動(土地の隆起など)も関係しますが、こと相模川流域で大きな影響を与えたのは気候の変動です。

【河岸段丘のでき方】金沢市の河岸段丘(石川県)

金沢を流れる有名な川は2つ、犀川(さいがわ)と浅野川です。両岸には寺町台地立小野台地(こだつのだいち)、そして卯辰山丘陵地(うたつやまきゅうりょうち)がありますが、これらの台地はみな川によって作られたものです。2つの川の河岸段丘に町がまたがっているため、金沢には至るところに坂道が点在するという成り立ちです。

坂はこの急傾斜を上り下りするためであり、坂を上っても山になっているというわけではなく、上り切れば平地です。しかし、市内を流れる用水路の流れが速いことからも、かなり傾斜のある地形だということが読み取れます。

河岸段丘からうまれた、金沢の坂にまつわるエピソード

尾張町から主計町(かずえまち)茶屋街に下りる狭い石段があります。木が茂って昼間でも薄暗いことから、「暗がり坂」という名が付きました。尾張町界隈の旦那衆がこの坂を抜けて、主計町や東山の茶屋に人目を忍んで通ったといわれますが、それを「ひよどり越え」と呼びました。

「ひよどり越え」とは、源義経の騎馬隊が一ノ谷の戦いで急斜面を駆け下りて平氏を破った戦いぶりを表した言葉です。この戦法の思いきりのよさを、人目を気にしつつも茶屋街へ足しげく通う旦那衆の勇気と思いきりになぞらえたようです。日常をしばし離れて茶屋街へと向かうとき、彼らにとってこの坂は非日常や別世界への入り口だったのでしょう。

そのほかにも、「あめや坂」や文豪ゆかりの坂なども残っています。坂の名称を紐解けば、その由来にまつわる歴史や出来事にも思いを馳せることができます。

【河岸段丘のでき方】豊川の河岸段丘(愛知県)

中央構造線に沿うようにして、北からおよそ南西方向へ蛇行を繰り返しながら進み、東三河平野(豊橋平野)を経て渥美湾に注ぐ豊川(とよがわ)。その中・下流域、とりわけ寒狭川(かんさがわ)(豊川)と宇連川(うれがわ)(三輪川)の合流点(長篠城址付近)から下流約30㎞にわたる流域には、平坦面と急斜面がセットになった階段状の地形である河岸段丘(かがんだんきゅう)が発達しています。

豊川の河岸段丘は東三河で自然の要害として利用

豊川流域の東三河では、河岸段丘を自然の要害として利用、多くの城や砦が築かれてきました。

武田信玄にとって最後の戦場となった野田城、長篠の戦いの翌年に戦国武将・奥平貞昌(おくだいらさだまさ)(信昌(のぶまさ))が築いた新城城は、ともに豊川の中位段丘面に立地。城兵わずか500人程度の徳川方(野田城)に約3万人の武田軍が攻め入りましたが1カ月経っても落とせず、最後は水脈を断って開城させています。

また、吉田城は、豊川と朝倉川の合流点、豊川が大きく蛇行している南側の河岸段丘上に築城されました。この場所は、古代から豊川を渡るための交通の要所であり、難所でもありました。船着き場となっていた入道ヶ淵を埋め立てたといわれます。また、段丘面は豊川から10m超の高さがあり、自然の要害となっています。

【河岸段丘のでき方】高梁川の河岸段丘(岡山県)

岡山県新見市(にいみし)の高梁川(たかはしがわ)上流には、県内屈指の規模を誇る鍾乳洞「井倉洞(いくらどう)」があります。高梁川沿いには、鍾乳洞とともに、土地の隆起や気候の変動によって形成される河岸段丘(かがんだんきゅう)が発達した場所が点在しています。

実は河岸段丘と鍾乳洞の形成には深い関係があり、近い位置の河岸段丘と鍾乳洞の標高はほぼ一致しています。河岸段丘は、河床に土砂が堆積して広がってできた谷底平野が、地盤が隆起して、河床が侵食作用で下刻(かこく)され段になることにより形成されます。その際、隆起や気候変動のない安定期には、河床面が下がらなくなるので、その位置に洞窟を生みます。そのため河岸段丘付近に鍾乳洞ができたと考えられています。

井倉洞

住所
岡山県新見市井倉409
交通
JR伯備線井倉駅から徒歩15分
料金
大人1000円、中学生800円、小学生500円
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