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有田みかんの歴史

有田地方におけるみかんの歴史は古く、JAありだのホームページに「1429年に糸我荘中番付(いとがそうちゅうばんづけ)(現・有田市糸我町)に自生みかん樹が発見された」と記してあることから、有田では約590年前からみかんが存在していたということになります。室町時代後期には、熊野参詣の都人(みやこびと)たちの土産品として、有田の「蜜柑(みつかん)」が珍重されていたといいます。

有田みかんの起源

有田みかんの起源は諸説あります。なかでも、1574年に糸我荘中番付の伊藤孫右衛門(いとうまごえもん)が紀州藩の委託を受け、肥後八代(ひごやつしろ)(現・熊本県八代市)より丸蜜柑の苗木を有田に移植し、栽培したのがはじまりという説が有力です。

有田みかんの品種改良と発展

江戸時代に入ると、紀州藩は殖産政策を推進。水田に適さない山々を開墾して、大坂や堺などの都会で売れるみかんの栽培を農民に奨励しました。これにより、みかん農家による品種改良が一気に進みました。

江戸時代に紀州みかんを一大産業に発展させたのは、有田地方の農民が結成した「蜜柑方(みかんがた)」と呼ばれる共同出荷組織です。有田地方で収穫されたみかんは平田舟に積まれ、有田川河口にある北湊(きたみなと)に集められました。そこで蜜柑方会所を通じて小舟に積みかえられ、湊の近くに停泊している本船まで運ばれ、堺や大坂、京都へ出荷されていったのでした。

有田産みかんは江戸でも評判に!

そんな状況のなか、滝川原村(現・有田市)の藤兵衛という人物は「みかんは江戸でも売れるはず」と考え、1634年に海路で1か月かけて江戸に400籠(1籠約15㎏)のみかんを出荷しました。紀州産のみかんは甘さと酸味を兼ね備え、色も形も見栄えがよかったため、すぐに江戸で評判となりました。藤兵衛は翌年に2000籠を出荷。1656年には、5万籠を江戸へ送ったという記録が残っているといいます。

有田みかんは主に有田市、湯浅町、有田川町、広川町で生産されています。有田地方は、年平均気温16℃、年間降水量1600~1700㎜ の比較的温暖な気候で、みかん生産に適した土地です。

「紀伊国屋文左衛門」は有田産みかんで財をなした男

その後、みかんで財を成す紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)が登場します。
紀州湯浅(きしゅうゆあさ)(現・湯浅町)出身の紀伊国屋文左衛門がまだ青年だった1685年、紀州ではみかんが大豊作でしたが、熊野灘では悪天候が続き、江戸への航路は閉ざされていました。余ったみかんは上方商人に買い叩かれ、紀州みかんの価格は大暴落してしまいます。

紀伊国屋文左衛門とは

現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定されます。経歴には不明点が多く、俳諧や絵をたしなんだほか、吉原で豪遊した伝説もあります。名前を略して「紀文」と呼ばれました。

紀伊国屋文左衛門は江戸のみかん価格高騰に目をつけ悪天候の中みかんを満載し出航!

一方、当時の江戸では、毎年11月1日、鍛冶屋の神様を祝う祭りでみかんをふるまう風習がありました。ところが、紀州からみかんが届かないため、みかんの価格は高騰していました。みかんが「紀州では安値、江戸では高値」であることに目をつけた紀伊国屋文左衛門は、金を借りて紀州でみかんを買い集め、それを千石船に満載して、暴風雨のなか江戸へ向かいました。船乗りたちは、背中に「南無阿弥陀仏」の六文字を背負った死に装束で出航したといいます。

無事に江戸へ到着した紀伊国屋文左衛門は、みかんを高値で売り切ったばかりでなく、嵐を乗り越えて江戸にみかんを届けてくれた勇気ある商人として人気を博したといいます。

この逸話は紀伊国屋文左衛門の武勇伝として語り継がれ、浪曲や江戸歌舞伎の演目にも取り上げられました。また、紀伊国屋文左衛門の船が嵐のなか船出する様子を「沖のくらいのに白帆が見える、あれは紀の国みかん船」という歌詞にした民謡「有田みかん摘み唄」も生まれました。

紀伊国屋文左衛門は木材問屋となり豪商に

その後も紀伊国屋文左衛門は紀州産みかんを江戸で販売しました。さらに、江戸で買いつけた塩鮭を堺や大坂で販売しました。こうした商いと木材の買い占めで手にした大金を元手に、江戸で木材問屋を立ち上げました。やがて幕府御用達の木材問屋となり、豪商と呼ばれるようになります。

紀伊国屋文左衛門の晩年は?

しかし、木材問屋は深川木場の火災により焼失して廃業となります。その後、紀伊国屋文左衛門は鋳造事業(ちゅうぞうじぎょう)に失敗して哀れな晩年を送ったという説と、老後まで裕福に暮らしたという説があり、伝説に満ちた人物となっています。

紀伊国屋文左衛門の「みかん船伝説」は史実ではないという指摘もありますがが、江戸で紀州のみかんが人気を博したことは間違いありません。

有田みかんは地域ブランド登録第一号

1698年、紀州藩は蜜柑方の売上に対し「蜜柑税(御口銀(おくちぎん))」を課し、藩財政の貴重な財源としました。これはみかんの製造・販売がすでに当時から藩を代表する一大産業になっていたことを物語っています。

有田みかんは2006年、特許庁の「地域団体商標(地域ブランド)」の登録第1弾として認められました。現在、有田みかんだけで全国シェアの9%を占めています。

「お菓子の神社」といわれる橘本神社

海南市の橘本神社(きつもとじんじゃ)は、お菓子とみかんに深く関係する神社です。第11代垂仁天皇の命を受けた田道間守(たじまもり)は、不老長寿の霊菓を求めて中国へわたりました。しかし彼が帰国したとき、天皇はすでに崩御しており、悲嘆した田道間守は自殺してしまいます。
田道間守が中国から持ち帰った橘(みかんの原種)の木はその後、橘本神社旧社地の「六本樹の丘」に植えられたといいます。橘の果実は、当時の中国では加工して菓子として食べられていたことから、橘を「菓子の起源」と捉えたことにちなんで、橘本神社は「お菓子の神社」と呼ばれるようになりました。また、橘は改良され、みかんになったことから「みかんの発祥の地」ともいわれているのです。

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・大地の活動によって生まれた南紀熊野ジオパーク
・恩恵と水害をもたらしてきた世界遺産「川の表参道」熊野川
・延々と続く海岸線、美浜町の観光シンボル、煙樹ヶ浜と磯釣りのメッカ・すさみ枯木灘海岸
・日本最大の高さの「那智の滝」は大噴火時代の名残

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・外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる7つの高野参詣道・熊野古道
・「いちご電車」「おもちゃ電車」「たま電車」「うめ星電車」 廃止寸前から復活した和歌山電鐵
・京都と新宮を結ぶ特急が走っていた?幻に終わった「五新線」
・今の紀和駅は元和歌山駅だった! 複雑な変遷をたどった和歌山市内の鉄道ルート
・急カーブと急こう配が連続する南海高野線 橋本以南は走る電車が違う!

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Part.3 和歌山の歴史を深読み!

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・かつて那智勝浦で行われていた補陀落渡海って?
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・根来寺と根来衆と鉄砲の深い関係
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