目次
日本の酒どころ②:西条の酒~知恵と工夫が生んだ名酒(広島県)
広島県内には約50の酒蔵がありますが、特に知名度が高いのが日本三大酒処の一つに数えられている西条です。西条の酒造りは江戸時代初期に始まりました。この場所で酒造りが盛んになった理由が、酒造りに適した水です。
西条の北側には、標高574.7mの龍王山(りゅうおうざん)が位置しています。東広島市の水源とされており、伏流水は2~3km先の西条駅前付近まで流れています。龍王山の伏流水が西条層に流れ込むと、水がろ過されて鉄分が取り除かれ、ミネラルを含んだ水になるのです。西条の各酒蔵は独自に井戸を持ち、龍王山の伏流水を仕込み水に使用しています。
しかし明治時代初期において、広島の酒が注目されることはありませんでした。瀬戸内海を通して灘・伏見の酒が流通していたこともありますが、味や品質がそこまで高くなかったのです。
西条の酒造りのターニングポイント!「軟水醸造法」を開発
1881(明治14)年、三津(現在の東広島市安芸津町)の酒造家・三浦仙三郎は、私費を投じて酒造試験場を造成。原材料米や水質を検討、灘の水は硬水で三津の水は軟水であることを突き止めました。
そして、広島の水に合った独自の酒造法を追究。1897(明治30)年に、軟水でも活発に活動できるようしっかり育てた麹を使用して低温で長時間ゆっくり発酵させる、広島独自の「軟水醸造法」を開発したのです。
1908(明治41)年には精米機メーカーの佐竹製作所(現在のサタケ)が、酒造好適米をさらに磨くことができる精米機を発明。小島屋木村屋(現在の賀茂鶴酒造)がこの精米機で磨いた酒造好適米を軟水醸造法で仕込んだ「吟醸酒」を醸造しました。
軟水の弱点を克服し、キメの細かいふくよかな味わいを持った広島の日本酒は高い評価を獲得。1907(明治40)年に行われた全国清酒品評会では、灘や伏見の日本酒を抑えて最高賞を受賞し、日本三大酒処の一つとして全国から注目されるようになります。
日本の酒どころ③:伏見の酒~女酒はどのように誕生したのか(京都府)
伏見酒は灘(兵庫県)の「男酒(おとこざけ)」に対し、「女酒(おんなざけ)」とも呼ばれています。その理由は水質の違いです。灘などの酒造所では、ミネラル分の多い硬水を使用するのに対し、伏見では比較的少ない中硬水で製造しています。
硬水の酒は味の引き締まって力強い味わいが特徴で、中硬水は口当たりがまろやかで上品な繊細さを醸します。この水の違いこそが、伏見の女酒を生む最大の要因といえるでしょう。
伏見の酒造は、豊臣秀吉の時代に本格化
京都市の南部に位置する伏見区で酒造がはじまったのは、渡来系の秦氏などが大陸から技術を持ち込んだ5世紀ころとされています。奈良時代には酒や酢の醸造を専門とする「造酒司(みきのつかさ)」という役所が都につくられ、伏見の酒造は続けられていきます。
戦国時代の末期になると、酒づくりは本格化しました。要因となったのは、豊臣秀吉による伏見城の建造です。秀吉は没するまで伏見城で政務を行い、城下には多数の大名屋敷が建てられました。人口も増え、伏見は数万人が暮らす都市となって酒の需要も高まったのです。
日本の酒どころ④:灘五郷の酒~日本酒好きの聖地(兵庫県)
現在、神戸市灘区の西郷(にしごう)、東灘区の御影郷(みかげごう)(中郷)と魚崎郷(うおざきごう)(東郷)、西宮市の西宮郷と今津郷は、日本酒の名産地「灘五郷」として名高いエリアです。御影郷には、菊正宗酒造、白鶴酒造の本社もあります。
好条件がすべてそろっている!
良質の水、米・・・良い日本酒には良い米と水が欠かせません。「灘」と通称される神戸市灘区から西宮市にかけての沿岸一帯は、良質の播州米が集まっていました。加えて、江戸時代の初期から夙川(しゅくがわ)、芦屋川、住吉川、都賀川(とががわ)などの流域で水車を利用した精米が発達していました。
気候・・・灘は気候も酒造りに適していました。冬の灘は六甲おろしと明石海峡を通る西風が吹き抜けます。冷蔵庫がなかった江戸時代には、この寒風を酒蔵に取り入れて日本酒を仕込む「寒造(かんづくり)」が行なわれていました。
立地・・・灘は港町に位置したので、酒樽を積んだ樽廻船(たるかいせん)によって灘の酒は各地に売り込まれました。幕末には江戸に入る酒樽の約6割が灘から来ていたといいます。
杜氏の存在・・・灘が酒どころとして知られるようになったのは、江戸時代前期の寛永年間(1624~44年)に、伊丹出身の雑喉屋文右衛門(ざこやぶんえもん)が西宮で酒造をはじめて以降です。灘には、多紀郡(たきぐん:現在の丹波篠山市)から出稼ぎの酒造家が集まって技術を磨き上げ、彼らは「丹波杜氏(とうじ)」と呼ばれました。
日本の酒どころ⑤:熊本の酒・焼酎~南北で分かれる酒造りとは(熊本県)
熊本県内には1000を超える湧水群があるといわれますが、その水によって良質の米が生産され、熊本特有の酒文化が育まれてきました。
北部が日本酒圏であるのに対し、南部は圧倒的に球磨焼酎圏となっています。これは、北部の熊本藩に対し、南部が鎌倉時代から江戸時代の終わりまでの約700年間、相良氏に支配され、熊本藩とは文化的にも独立していたからです。
北部に集まる日本酒造り
熊本における日本酒の文化は、「赤酒」に始まったとされます。赤酒とは、もろみに木灰を入れて弱アルカリ性にし、保存性を高める灰持酒(あくもちざけ)の一種で、江戸時代には御国酒(おくにざけ)とされ、藩内で赤酒以外を造ることも、藩外の酒が持ち込まれることも禁じられていました。
明治に入り、熊本に「熊本県酒造人組合」が設立され、灰持酒から、加熱によって低温殺菌を行う、いわゆる清酒(火持酒)がつくられるようになったのは1879(明治12)年のこと。1909(明治42)年には、組合によって、熊本県酒造研究所が設立され、のちに株式会社となりました。
南部に集中する焼酎造り
一方、熊本を代表する酒として、球磨焼酎も忘れてはならない存在です。そもそも、室町時代に東南アジアや大陸と活発に交易をしていた相良氏によって、蒸留技術が持ち込まれたのがルーツだとされています。さらに文禄・慶長の役(1592~1598年)のときに、大陸から蒸留法の新しい技術がもたらされることで、現在に伝わる球磨焼酎の製法がほぼ完成し、江戸時代には人吉・球磨で盛んにつくられるようになりました。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!