日本の伝説:関東編
関東地方の伝説:草津温泉に伝わる言い伝え(群馬県草津町)
温泉地にはその発祥などにおいて、歴史的人物の伝説が残っていることも多くあります。
ここでは、有名温泉地の今も語り継がれる温泉の伝説を紹介しましょう。
草津の温泉起源は多くの説があるため、代表的なものをいくつか紹介しましょう。
最も古いものは、古代の英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)が見つけたという説。東国征伐の帰りに、白根山から立つ煙を発見したのが起源とされています。
また、草津の古刹・光泉寺の書物『温泉奇功記』によると、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が布教活動の途中、草津で霊気にあふれ、最も気を含む場所を発見。そこで行基が祈禱すると、温泉が湧き出したとされています。
有名なところでは、鎌倉幕府を築いた源頼朝が開湯したという説もあります。建久4(1193)年に頼朝が浅間山麓で狩りを行った際に、谷底から湯気が立っているのを発見。そこを掘ると湯が湧き出たと伝えられています。
関東地方の伝説:伊香保温泉の起源と石段建設の伝説(群馬県渋川市)
伊香保温泉が発見されたのは1300年以上前といわれています。『万葉集』でも伊香保は多く詠まれ、巻14の東歌上野国(あずまうたかみつけのくに)の部などに伊香保の地名が記述されています。このほか、第11代天皇・垂仁(すいにん)天皇の頃に発見されたという説や、草津温泉の起源と同様、行基によるという説もあります。
ちなみに、伊香保名物の石段は、長篠の戦で敗れた武田勝頼(かつより)が、負傷兵の療養のために源泉を効率よく配給できるように、配下の真田昌幸に命じてつくらせたと伝わっています。温泉を中心に町づくりをしたため、日本で最も古い温泉リゾート地ともいわれています。
関東地方の伝説:平将門の首塚伝説(東京都千代田区)
天慶2(939)年に起きた平将門の乱。将門は京への反乱者として京でさらし首となりましたが、単に中央への叛乱者というだけでは終わりませんでした。京からは叛乱者として葬られましたが、地元では民衆からの信頼が厚かったことが多くの伝説を生みます。
日本三大怨霊?平将門の首塚伝説とはどういったものなのでしょうか。東京大手町の皇居を目前にしたビルに囲まれた中に「将門塚」があります。何度も掘り返されようとされましたが、そのたびに不吉な事象が起こり、令和の現在も変わらずにあります。将門の怨霊だとされ、菅原道真、崇徳天皇の3人とともに「日本三大怨霊」とされています。
さらし首となった将門の首は東国まで飛び、首が落ちたとされる伝承地は数か所ありますが、もっとも有力なのが大手町の将門塚があるところ。この地で不敬を働くと崇られるといわれています。
関東地方の伝説:腹切りやぐら・東勝寺跡(神奈川県鎌倉市)
北条一族が壮絶な最期を遂げた鎌倉幕府終焉の地、東勝寺に残る腹切りやぐらは史実とともに残る伝説です。
源頼朝が幕府を開いてからおよそ140年間、日本の政治・文化の中心として栄え、武家政治の基礎が築かれた鎌倉。武家の古都の名にふさわしく、重要な史跡、古刹が市内のあちこちに点在しています。足利尊氏によって北条執権の屋敷跡地に建立された宝戒寺(ほうかいじ)もそのひとつ。そして、この裏手にあるのが鎌倉幕府の滅亡にまつわる地、東勝寺(とうしょうじ)跡です。
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府3代執権・北条泰時が創建した北条氏の菩提寺(ぼだいじ)。1333(元弘3)年5月22日、新田義貞軍による鎌倉攻めで追い詰められた14代執権・北条高時は、870余名の一族、家臣とともに東勝寺に立てこもり、火を放って自決したといいます。北条氏の最期です。
現在は「東勝寺跡」の石碑がひっそりと建ち、その先の山腹には「腹切りやぐら」と呼ばれる横穴がぽっかりと口を開けています。腹切りやぐらの岩窟の中には、五輪塔と何本もの卒塔婆が立てられています。幾度となく戦いの舞台となった鎌倉には、岩壁をくりぬいた横穴式のやぐらが数多く存在します。これは、丘陵に囲まれた鎌倉特有の墳墓で、鎌倉時代、戦死した武士たちを供養し、遺骨を埋葬するために造られたものだそうです。東勝寺は、その後再建されましたが、戦国時代に廃絶。草で覆われた跡地には、北条高時を祀ったとされる腹切りやぐらが、鎌倉幕府の栄枯盛衰を静かに物語っています。
関東地方の伝説:静御前の運命の地となった由比ガ浜(神奈川県鎌倉市)
次は、愛しい義経を想った白拍子を舞う静御前の、あまりにも悲劇的な運命にまつわる伝説です。
1186(文治2)年4月8日、鶴岡八幡宮の舞殿では、源頼朝と妻・北条政子の前で白拍子(しらびょうし)の舞が披露されていました。舞台で舞っているのは白拍子として名高かった静御前(しずかごぜん)。このときすでに義経の子を身ごもっていた静御前は、舞いながら美しい声で歌いはじめたといいます。
吉野山 みねの白雪ふみわけて
入りにし人のあとぞ恋しき
しずやしず しずのおだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな
吉野で別れた義経への恋しい想いを込め歌いながら、静御前は義経と出会ってからのことを思い出していたのかもしれません。
静御前は白拍子として名高かった母の磯禅師について、幼い頃から舞を習って育ちました。歌も詠めば楽器もこなす才女だったといわれる静御前。そのうえ、容姿にもすぐれていました。一方の義経も、京での人気は高まるばかり。若き英雄に女性は憧れました。義経と静御前が結ばれたのは運命だったのかもしれません。
しかし運命は皮肉です。義経は腹違いの兄・頼朝に次第に疎まれるようになり、壇ノ浦の合戦からわずか7カ月後、ついには都を追われる身となってしまいます。静御前も吉野の山までは一緒でしたが、険しさをます行く手に同行をあきらめます。その後、捕らえられ鎌倉に護送されました。そこで義経の行方を厳しく問いただされますが、静御前に分かるはずもありませんでした。
尋問を断念した頼朝は、ならばと静御前に舞を命じました。それに応え冒頭のように舞うには舞いましたが、静御前の歌を聞いた頼朝は激怒します。自分に反逆した義経を慕う歌だったからです。その場は政子のとりなしで大事にはいたりませんでしたが、静御前は歌に託して復讐したのでしょうか。
その後、静御前は男の子を生みました。かねてから子が女なら助けるが、男ならただちに殺すと頼朝にいわれており、男の子と分かったときは絶望したにちがいありません。静御前は必死で抵抗したことでしょう。しかし、頼朝の使者・安達新三郎に我が子を奪われてしまいます。新三郎は静御前の子を抱えて馬に乗ると、命じられていた由比(ゆい)ガ浜に向かい、そこの材木置き場に子を投げ込んで殺してしまったといいます。
その後、静御前は出家しますが、1187(文治3)年、20歳の若さで亡くなったといわれています。一方、義経が奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)で自らの命を絶ったのは、1189(文治5)年のこと。31歳でした。
毎年4月の第2日曜日、鎌倉の鶴岡八幡宮の舞殿では、往時をしのんで「静の舞」が奉納されています。悲劇の場所・由比ガ浜も、今では有名な海水浴場として夏には多くの人々が訪れる場所となっています。
日本の伝説:中部編
中部地方の伝説:かぐや姫伝説(静岡県)
静岡にはゆかりの史跡とともに、独特の『竹取物語』が伝わっています。富士山と人々との関係がうかがえる物語を紐解いてみましょう。
『竹取物語』といえば、多くの人が子どもの頃から「かぐや姫」として親しんでいる物語。竹から生まれた姫が、やがて月へ帰っていくストーリーは、昔話の中でもとりわけポピュラーです。富士山が登場することから、静岡にはその伝説を連想させる史跡が少なくありません。そして興味深いことに、静岡には、一般的に知られているものとは異なるエンディングが伝わっています。
静岡県東部、富士山南麓に伝わる竹取物語は、かぐや姫が月ではなく、富士山に帰っていくのです。明治初年まで富士市内に存在した富士山東泉院に伝来した『富士山大縁起(ふじさんだいえんぎ)』には、次のような話があります。
かぐや姫は一人富士山に登り、山頂に着くと岩窟に入ります。それを聞き、かぐや姫を一目見ようと帝は都から駿河国へやってきて、竹取翁の案内で富士山に登り、かぐや姫との対面を果たします。二人はともに暮らすことを望み一緒に岩窟に入り、かぐや姫は富士山の神となるストーリーです。
こうした結末からは、かぐや姫が富士山そのものであり、聖なる山、ご神体と崇めていた人々の信仰心がうかがえます。その信仰は今も根強く残り、富士山周辺にはゆかりのある神社やスポットが点在しています。
中部地方の伝説:静岡の空海伝説①~霊泉、独鈷の湯(とっこのゆ)(静岡県伊豆市)
真言宗を開いた弘法大師空海。教えを広めるべく行脚した際、残した奇跡の物語は各地に残ります。静岡に伝わる空海の伝説からも、そのダイナミックな活躍が見えてきます。
伊豆最古の温泉とされる修善寺温泉。その元となったのが空海の伝説です。
空海が807(大同2)年、修善寺を訪れた際、桂川で父親の体を洗う少年を見かけました。病を患っている父親を治そうとする少年の孝行心に空海は感心。「川の水は冷たいだろう」と、仏具(独鈷杵(とっこしょ))で川の中の岩を打ち砕いたところ、霊泉が噴き出しました。空海は少年に、温泉が病に効くことを教え、この湯によって、父の病気は癒えたといいます。ここから湯治療養が知られるようになりました。現在は法律上の理由から入浴はできません。
中部地方の伝説:静岡の空海伝説②~天魔地妖を追い払った奥の院と桂大師(静岡県伊豆市)
各地を行脚していた空海は791(延暦10)年、湯舟地区の奥にある桂谷山寺(奥の院)にたどり着きました。修行をしようとしたところ、天魔地妖が邪魔をするため、空に向かって大般若(だいはんにゃ)の経文を書きました。すると、文字が空中に浮き出して金色に輝き、天魔はことごとく去ったといいます。
この奥の院からさらに山中に入ると、空海が唐から持ち帰った桂の杖を刺して芽生えたと伝わる桂の木があります。静岡県指定の天然記念物に指定されており、大師の石仏は「桂大師」として祀られています。
静岡の空海伝説③~宝蔵院(ほうぞういん)の「いの字石」(静岡県伊豆市)
伊豆市にある宝蔵院は800(延暦19)年、空海の創建と伝えられます。境内の「いの字石」は、空海が山門前で発見し、法力によって「い」を刻んだと伝えられます。弘法大師の命石として無病息災にご利益があると信じられているほか、日本三筆の一人と名高い空海にあやかって、触れると書道学芸に通ずるともいわれます。
中部地方の伝説:ヤマトタケル伝説(静岡県)
『古事記』や『日本書紀』には、県内のさまざまな地名の由来として、ヤマトタケルの伝承が記載されています。
景行40年(西暦110年とされる)のこと、ヤマトタケルは父である第12代景行天皇の命令で東国の蝦夷(えぞ)討伐に向かいました。その途中、逆賊に騙されて草むらの中で四方に火を放たれ焼き殺されそうになりますが、身に着けていた剣で草を薙ぎ払い、敵を破ることができたといいます。
ヤマトタケルが無事に難を逃れた地を「草薙(くさなぎ)」といい、この時使用した剣は敵を打ち払う神剣として草薙剣と呼ばれるようになったと伝えられています。
中部地方の伝説:恋路海岸の悲恋伝説(石川県能登町)
石川県能登町には、恋路海岸(こいじかいがん)というロマンチックな名前の海岸があります。海上には、真っ赤な鳥居の後方に弁天島が神々しく浮かびます。この恋路海岸から見附島までの3.5kmの海岸線は、その名称にちなんで「えんむすビーチ」といわれ、縁結びの聖地として知られます。
しかし、この地名は悲恋伝説に由来すると古くから語り継がれてきました。
海岸の周辺にあった多田の里の鍋乃という乙女が、木郎(もくろう)の里の青年・助三郎と恋に落ちるところから言い伝えは始まります。
木郎の里から多田の里へと通じる道は険しく、とりわけ夜道は危険だったため、助三郎は磯伝いに浅瀬を辿りながら恋路海岸へ辿り着き、鍋乃は目印のかがり火を焚きながら助三郎を毎晩待っていました。しかし、鍋乃に横恋慕する源次という男が現れ、源次は鍋乃と助三郎の仲を妬むようになります。助三郎さえいえなければと思い込んだ源次は、ある夜、助三郎が海の深みにはまるような方角にかがり火を焚きました。何も知らずにやってきた助三郎が、火の方向がいつもと違うことに気づいたかは不明ですが、鍋乃を信じて火の方向に進みました。
しかし、源次のくわだて通り、深瀬にはまって溺死。それを知った鍋乃は絶望して悲嘆に暮れ、助三郎のあとを追って自らの命を絶ったという悲しい結末を迎えます。
助三郎と鍋乃を死なせてしまったことを深く悔いた源次は、自らの残忍さに苦しんで出家し、2人を弔いながら行脚を続けました。行脚を終えたのち、老僧となって故郷に戻ってきた源次は観音堂を建て、そこに住みながら2人の冥福を祈り続け、罪を償おうとしたのか、男女の仲を取りもつこともあったといいます。いつしか、その観音堂に参詣する男女は結ばれると言われるようになったそうです。
中部地方の伝説:飛越地震による鳶崩れ・立山温泉跡( 富山県立山町)
「もうひとつの立山」にみる自然の脅威、飛越(ひえつ)地震で埋没した温泉跡地に残る伝説をご紹介しましょう。
立山黒部(たてやまくろべ)アルペンルートといえば、北アルプスの大自然が満喫できる人気の山岳観光地ですが、そのすぐ南側にある「もうひとつの立山」────立山カルデラと、かつてその地で繁栄した立山温泉をご存じでしょうか。
立山カルデラは、火山活動と浸食で造られた東西約6・5㎞、南北約4・5㎞の巨大なくぼ地。地震や豪雨により、これまで何度も土砂災害が起きている場所です。ここから富山湾に流れ込む河川はとりわけ急流で、そのひとつ常願寺川(じょうがんじがわ)は「日本一の暴れ川」と呼ばれるほど。頻繁に発生する洪水によって、流域は大きな被害を受けてきました。
立山温泉は今から400年以上前、ここ立山カルデラで深見六郎右衛門によって発見されたといわれます。立山信仰の拠点として、また湯の効能も評判を呼び、多くの人々(年間9000人)が訪れ、にぎわいを見せました。しかし、飛越地震と呼ばれる大地震によって温泉小屋に泊まっていた30余名が遭難、温泉も土砂で埋もれてしまいます。
飛越地震が発生したのは1858(安政5)年2月26日午前2時頃。推定規模マグニチュード7・1の大きな飛越地震が飛驒・越中一帯を襲い、立山カルデラでは南側の大鳶山・小鳶山が崩壊(「鳶崩(とんびくず)れ」と呼ばれる)。ほかの山々も崩れ落ち、大量の岩石土砂によって川がせき止められ、泥水をためたいくつかのせき止め湖(天然ダム)ができました。さらに半月後、第2、第3の地震が発生したため泥水湖が決壊、常願寺川下流域の富山平野を泥の海に変えました。このときの犠牲者は、溺死者140人、負傷者8945人といわれます。
のちに深見家では、新しい泉源を発見し立山温泉を再興します。1928(昭和3)年頃には湯治客のほか、登山客や工事関係者の利用によってそのにぎわいはピークに達しますが、1969(昭和44)年の豪雨で常願寺川流域が被害を受け、交通機関が途絶えてしまったために廃業。現在その跡地には、当時は珍しかったというタイル張りの床や洋風浴槽だけがむなしく残り、鳶崩れ遭難者の慰霊碑が建っています。飛越地震によって崩壊した鳶山の断崖は、岩肌が見える東側部分は「大鳶崩れ」と呼ばれています。
立山カルデラは、富山平野で暮らす人々を土砂災害から守るため、これまで100年にもわたって砂防工事が続けられている「砂防のメッカ」。飛越地震によってできた泥鰌池など、現在は工事関係者以外は立ち入ることはできませんが、立山駅前にある立山カルデラ砂防博物館でカルデラの自然と砂防工事の様子を見学できます。
いつ襲いかかってくるか分からない大自然の脅威。この猛威を和らげ、自然と人間が共生していくための努力が今も続けられているのです。
富山県立山カルデラ砂防博物館
- 住所
- 富山県中新川郡立山町芦峅寺ブナ坂68
- 交通
- 富山地方鉄道立山線立山駅からすぐ
- 料金
- 大人400円、大学生以下無料(70歳以上無料、団体割引20名以上は大人320円、立山カルデラ展示室・大型映像ホール以外は無料、障がい者手帳持参で無料)
中部地方の伝説:おいらん淵にまつわる伝説(山梨県甲州市)
おいらん淵の伝説は武田信玄の隠し金鉱で、谷底に落とされた55人のおいらんたちに起きた悲劇です。山梨県旧塩山(えんざん)市と北都留(きたつる)郡丹波山(たばやま)村の境付近。国道411号沿いに広がる丹波渓谷が美しいこの地に、おいらんの悲話が伝わります。
時は武田信玄の頃。この付近に黒山金山という武田家の隠し金鉱がありました。その規模は大きく、戦国最強の武将といわれた信玄が、48万両の軍資金をここから掘り出したといいます。鉱山街には黒川千軒、丹波千軒という大集落があり、坑夫の慰安婦として多くの遊女(おいらん)もいました。
信玄の息子・勝頼の代になり、長篠(ながしの)の戦いに敗れた武田家は、金鉱の秘密が漏れるのを防ぐため廃鉱としますが、ある問題が残りました。遊女により鉱山の存在が知られることを恐れたのです。そこで仕組まれた武田役人たちの残酷な策謀。渓谷の上に宴台を造って遊女を集め、酒を振る舞い、にぎやかになったところで台を吊っていたフジつるを両側から切り落としたのです。逃げる間もなく、深い谷底へと落ちていく遊女たち。この淵が「おいらん淵」、また、55人の遊女が命を落としたことから「五十五人淵」といわれるゆえんです。
その亡骸は下流にある丹波山村奥秋の河原に流れ着いたといいます。住民により手厚く葬られ、地蔵堂も建てられました。現在は「おいらん堂」として再建され、地元の人々によって今もなお供養されています。
中部地方の伝説:絵島生島事件(絵島囲み屋敷)は大奥の伝説(長野県伊那市)
大奥の権力争いから生まれた大醜聞犠牲者である絵島が、28年間「絵島囲み屋敷」に幽閉された「絵島生島事件」は、江戸城大奥最大のスキャンダル。政治や色恋、嫉妬など、あらゆる「欲」が渦巻く大奥で大年寄が粛清された大事件です。
物語の主人公は、大奥の女中・絵島。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の愛妾だった月光院(げっこういん)に仕え、信頼も厚かった絵島は、大奥でも最高の権力者・大年寄となりました。1714(正徳4)年、月光院の代参として家宣の墓参りをした帰路に芝居小屋・山村座に立ち寄って芝居を見物、大奥への帰りが遅くなってしまいます。この出来事に目をつけたのが、月光院と対立する家宣の正室・天英院(てんえいいん)とその周辺勢力でした。
人気歌舞伎俳優・生島新五郎との不義密通の罪に問われた絵島。死罪裁決が下るも、月光院の口添えで減刑、信州・高遠(たかとお)に流されることとなりました。相手の生島も三宅島へ流罪の刑に処され山村座は廃絶、総勢1500人もの犠牲者を出したといいます。高遠へと流罪になった絵島はここで28年を過ごし、1741(寛保元)年、61歳で病死しました。
絵島が幽閉された部屋を復元し、現在一般に公開しています。その名も「絵島囲み屋敷」。復元された「絵島囲み屋敷」屋敷は当初、非持(旧長谷村)火打平にありました。大奥の頃には考えられない一汁一菜の食事。罪人として監視される毎日。絵島の間と呼ばれるその部屋は、はめごろしの格子戸に囲まれた8畳1間きりで、読書や手紙を書くことも禁じられていたといいます。ここから遠く生島が流された三宅島へ思いを馳せたのでしょうか(近年の研究では、2人が情を通じてはいなかったという説も)。
絵島の墓は絵島の遺言によって、高遠の日蓮宗の蓮華寺(れんげじ)にあり、境内には絵島の像も建っていて、毎年9月に法要が行われています。なお生島の没年は1743(寛保3)年とも1733(享保18)年ともいわれ、その墓は三宅島の海沿いに建てられています。
中部地方の伝説:宝暦治水で植えられた千本松原(岐阜県海津市)
こちらは、樹齢250年を経た千本の老松が語る、薩摩藩士が命をかけた岐阜県の「宝暦治水」の偉業の伝説です。
岐阜県の最南端部、また愛知県・三重県・岐阜県三県の県境に位置する海津市油島(あぶらじま)。ここは揖斐(いび)川と長良川が合流する地点であり、2本の川を分断するように、下流に向かって堤防が延びます。1㎞にわたりヒュウガマツの松並木が続くこの堤防は、「宝暦治水(ほうれきちすい)」と呼ばれる大規模な治水工事によって、1755(宝暦5)年に完成したものです。宝暦治水は、いまだかつてない難工事でした。
揖斐川、長良川に木曽川を合わせて「木曽三川」といいます。濃尾(のうび)平野を流れ、伊勢湾へ注ぎ込む3つの河川は、古来から頻繁に洪水を起こしました。住民は屋敷内に避難場所の「水屋」を設けたり、低地にある集落を堤防で囲む「輪中(わじゅう)堤」を造るなどして洪水に備えてきましたが、度重なる水害の苦労は絶えませんでした。
そんな中、幕府が木曽三川の御手伝普請(おてつだいぶしん)を命じたのが薩摩藩でした。御手伝普請とは、工事にかかる費用などすべてを藩が負担するもの。幕府には、外様大名である薩摩藩の財政を疲弊、弱体化させる目的もあったのです。
卑劣な幕府の命令に藩内では憤りの声も上がりましたが、家老・平田靭負(ゆきえ)は「幕命の如何よりも、薩摩武士の本分として必死の働きをすべき」と説き、およそ1000名で千数百㎞離れた見知らぬ土地の工事にあたることとなりました。靭負が総奉行となり、着工したのは1754(宝暦4)年2月27日。宝暦治水の工事は河川の増水による中断や、完成した場所が大雨で崩壊するなど苦労の連続。計画の変更により資金繰りや資材の調達にも苦心したといいます。刀を鍬にかえて苛酷な工事に耐えた薩摩藩の人たち。土木工事に不慣れな藩士に幕吏の目は厳しく、罵声が浴びせられることもありました。
そして最も難工事とされたのが油島の締切工事です。油島で合流する木曽川と揖斐川は、その水位の差が2.4m。木曽川から揖斐川へと激しく水が流れ込むこの地点を締め切って、河川を分流させたのです。1755(宝暦5)年5月22日、わずか1年3カ月で工事は完了。これを祝い堤防に植えましたのが、薩摩藩から取り寄せた1000本の松苗です。一大難工事を見事成し遂げた薩摩藩でしたが、工事期間中の割腹者51名、疫病での死者33名の犠牲をともないます。さらに多額の工事費を費やした全責任を負い、平田靭負は同年5月25日に切腹しました。
1938(昭和13)年、平和が訪れたこの地(木曽三川公園千本松原の一角)に平田靭負を祭神とした「治水神社」が建立されました。春秋の大祭には、薩摩義士の偉功を讃え、遠く鹿児島から参拝に訪れる人も多いといいます。油島の木曽三川公園にある展望タワーからは、千本松原と名付けられた松の並木が見下ろせます。平田靭負ら薩摩義士が、文字どおり命をかけて築いた堤防なのです。
中部地方の伝説:唐人お吉、時代に翻弄されたその生涯をまつる宝福寺(静岡県下田市)
芸妓からアメリカ総領事の侍妾になり、波乱にみちた「唐人お吉」51年の生涯。歴史を動かした下田の地で実際に生きた「唐人お吉」の話です。
幕末から明治という「時代」に人生が翻弄されたひとりの女性がいました。それが下田の「唐人お吉」。恋人との別れや、世間の軽蔑に耐えながら生きた女の人生は、サザンオールスターズの『唐人物語』(アルバム『さくら』に収録)でも歌われているように切なく、物悲しい物語です。
本名は斎藤きち。1841(天保12)年11月10日、船大工の次女として生まれ、一家で下田に移り住んだ後、7歳で河津城主向井将監(むかいしょうげん)の愛妾村山せんの養女となり、14歳で芸妓に。美貌で評判だったといい、船大工の鶴松とは将来を誓い合った仲でしたが──。
タウンゼント・ハリスが初代駐日総領事として下田に着任したのは、1856(安政3)年のこと。翌年下田奉行所は、17歳のお吉にハリスのもとへ侍妾として上がるよう要請しました。支度金25両、年俸120両という破格の支払い額。そのうえ、国のためにと懇願されて断ることもできず奉公に上がることになったお吉。
領事館があった玉泉寺(ぎょくせんじ)に通い、また駕籠(かご)に乗り江戸の領事館にも同行。1858(安政5)年、日米修好通商条約の調印に成功したハリスがアメリカに帰るまでの間、足かけ3年にわたって仕えていたといいます。そんな彼女に町の人は外国人と通じ、大金まで得て───と、「唐人お吉」「ラシャメン(洋妾)」と嘲笑し、冷たい視線を送るようになります。
ハリスの帰国後、再び芸妓となったお吉は28歳で鶴松と同棲、下田で髪結業を営みますが夫婦仲がうまくいかずに36歳で離別。42歳で開いた小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」もわずか2年で廃業しました。貧困の中でお吉が自ら死を選んだのは51歳のときです。豪雨の夜、稲生沢(いのうざわ)川の上流(現在のお吉ヶ淵)に入水。その亡骸を手厚く葬り、法名を送ったのは、お吉が眠る宝福寺(ほうふくじ)の15代竹岡大乗師でした。
もし、開国がなければ、そして、下田に領事館が置かれなければ───鶴松とふたり、静かに一生を送れたのかもしれません。1876(明治9)年、お吉と別れた後に鶴松は急死、1878(明治11)年にはハリスもアメリカで生涯独身を通したその一生を終えています。偏見の目で見られたお吉ですが、健康状態のよくないハリスに対してとても献身的だったといいます。異国で暮らしたハリスにとっても、親子以上に年の離れたお吉がそばにいた日々に、心癒される瞬間があったのではないでしょうか。
お吉が開いた小料理屋の建物は、現存しています。お吉が身を投げたというお吉ヶ淵は現在、公園として整備され、宝福寺はお吉の菩提寺となっています。「唐人お吉記念館」では、お吉やハリスの遺品が展示されています。毎年、お吉の命日にあたる3月27日には「お吉祭り」が行われ、お吉ヶ淵と宝福寺で法要が営まれます。献花に集まる下田の芸妓衆、その艶やかさの中に一瞬、お吉の無念さがにじんで見えるようです。
中部地方の伝説:源頼家の悲劇の舞台、修禅寺(静岡県伊豆市)
鎌倉2代将軍の源頼家は、伊豆最古の温泉・修善寺温泉発祥の地、修禅寺に幽閉、親族の密告により暗殺されたといいます。
静岡県伊豆半島の歴史ある温泉地・修善寺(しゅぜんじ)温泉。多くの文豪に愛され、明治時代には樋口一葉や夏目漱石らも訪れたといいます。この地名の由来にもなった寺院が修禅寺(しゅぜんじ) です。807(大同2)年、真言宗の開祖・弘法大師が開いた古刹・修禅寺は、岡本綺堂(きどう)作の戯曲『修禅寺物語』により、源頼家の悲劇の舞台としても知られています。
1199(正治元)年、源頼朝の急死後、家督を継いで鎌倉幕府2代将軍となったのは頼朝の嫡男・源頼家。源頼家が弱冠18歳のときです。しかし、幕政はすでに祖父・北条時政と母・北条政子が掌握。次第に北条氏と対立するようになりました。1203(建仁3)年、源頼家はいよいよ比企能員(ひきよしかず)(正室・若狭局(わかさのつぼね)の父)と謀って北条氏打倒をもくろみますが、先んじて時政は比企一族を暗殺(比企能員の変)。源頼家と能員の陰謀を密告したのは、悲しくも母・政子であったといいます。
将軍職の剥奪とともに、伊豆の修禅寺に幽閉された源頼家。1204(元久元)年7月18日、時政からの刺客により暗殺されました。一説によると、修禅寺門前の虎渓橋際にあった筥湯(はこゆ)に入浴中に襲われたといいます。わずか23歳の短い生涯でした。
北条氏の権力争いに敗れた源頼家は、はたして政子に見殺しにされたのでしょうか。真意は謎に包まれています。弘法大師が開基した修禅寺。近くには、源頼家が入浴したといわれる「筥湯」が復元されました。
修禅寺
- 住所
- 静岡県伊豆市修善寺964
- 交通
- 伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅から東海バスまたは伊豆箱根バス修善寺温泉行きで8分、終点下車、徒歩5分
- 料金
- 宝物館=大人300円、小・中学生200円/(障がい者手帳持参で本人と同伴者1名宝物館無料)
日本の伝説:関西編
関西地方の伝説:比叡山焼き討ちの伝説(滋賀県大津市)
比叡山焼き討ちは、日本仏教の聖地を襲った悪夢。比叡山焼き討ちはまさに「全山燃ゆ」だったのです。
天台宗を開いた最澄は767(神護景雲元)年に近江国(現在の滋賀県大津市)に生まれたといいます。この地は、東は琵琶湖に接し、西に目をやると比叡山(ひえいざん)の美しい山並みが広がっています。最澄がその比叡山に比叡山寺(延暦寺)を創建したのは、788(延暦7)年のことです。
当初は3つの小堂だけのこぢんまりとしたものでしたが、最澄の死後も勢力を拡大し、室町時代から戦国時代にかけては軍事力をも高めていきます。政治的にも強い力をもつようになった結果、織田信長と対立するようになりました。そして、延暦寺が朝倉義景(よしかげ)を支援したことに怒った信長は、1571(元亀2)年、ついに仏教信仰の聖地・延暦寺を焼き討ち(比叡山焼き討ち)にするのです。
合図とともに一斉に比叡山に攻め入った織田勢は、僧俗はもちろん、助命を請う女子供も無差別に首をはね、死者は3000から4000名に上ったといいます。そして比叡山の象徴ともいえる根本中堂をはじめ、社寺堂塔500余棟のすべての建物に火が放たれました。比叡山焼き討ちのこの容赦ない放火、殺戮(さつりく)、略奪は4日間にわたって続いたといわれます。荒廃した比叡山延暦寺の本格的な再興は江戸時代に入ってからで、現在の建物はそのほとんどが寛永年間以降のものです。
1994(平成6)年にはユネスコの世界文化遺産にも登録された比叡山。秋の紅葉の時期をはじめ、行楽地としても人気の高い場所です。
延暦寺
- 住所
- 滋賀県大津市坂本本町4220
- 交通
- 京阪石山坂本線坂本比叡山口駅から徒歩10分のケーブル坂本駅から坂本ケーブルで11分、終点下車、徒歩10分
- 料金
- 東塔・西塔・横川共通券=大人1000円、中・高校生600円、小学生300円/国宝殿=大人500円、中・高校生300円、小学生100円/(団体20名以上は東塔・西塔・横川共通券大人800円、中・高校生500円、小学生300円)
関西地方の伝説:清水の舞台の伝説(清水寺)(京都府京都市)
ここではちょっと怖い逸話として伝説が伝わるスポットを、いくつか紹介してみましょう。
古都京都には、非業の死をとげた者たちの怨念や摩訶不思議な伝説が残ってます。
思い切って大きな決断をすることを「清水の舞台から飛び降りる」といいますが、 本当に大勢の人間が飛び降りていた事実があります。
記録によると1694年から1864年までの間、未遂を含め234件の身投げ事件が発生しています。ただ、この身投げは自殺願望によるものではなく「命をかけて飛び降りれば清水観音が願いを叶えてくれる」という当時の信仰にもとづくもの。つまり、意味は現在のたとえに近いものです。
飛び降りた人は男性が7割以上、年代別では10~20代の若者が大半を占め、 最年少は12歳、 最高齢は80歳であるともいわれています。
清水寺
- 住所
- 京都府京都市東山区清水1丁目294
- 交通
- JR京都駅から市バス206系統東山通北大路バスターミナル行きで15分、五条坂下車徒歩10分
- 料金
- 拝観料=400円/夜間特別拝観=400円/胎内めぐり=100円/成就院庭園特別拝観=600円/金運守=500円/(障がい者手帳持参で本人と同伴者1名無料)
関西地方の伝説:六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の死後の世界の伝説(京都府京都市)
寺名にもある六道とは、 仏教において生き物が死後に転生するとされる6つの世界のこと。六道への分岐点が六道珍皇寺にあるとされ、「六道の辻」とも呼ばれています。
そして、寺の本堂裏にある井戸に落ちると、 生きたまま地獄へ行けるという伝承も残されています。平安時代初期の官僚である小野篁(おののたかむら)は、夜になると必ず寺を訪れて井戸から地獄へ行くと、 閻魔大王(えんまだいおう)の部下として死者の裁判に立ち会ったとされています。
今でも篁が祀られ、篁堂には等身大の木像が閻魔像などと一緒に安置されています。
六道珍皇寺
- 住所
- 京都府京都市東山区大和大路通り四条下ル4丁目小松町595
- 交通
- 京阪本線清水五条駅から徒歩15分
- 料金
- 堂内の薬師如来等寺宝の拝観=大人600円、中学生300円、小学生200円/(リーフレット(100円)付)
関西地方の伝説:化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)建立の伝説(京都府京都市)
平安時代の化野は風葬が行われた地であり、多くの腐乱した遺体が放置されていました。
そんな遺体を供養しようとしたのが弘法大師空海です。 空海は野ざらしの死者にあわれみをおぼえ、埋葬をするとともに石仏を埋めました。1000体にもなるというそれらは密教世界を表現したとされ、 そこから建立された寺が化野念仏寺のはじまりだと伝わります。
平安時代が終わると風葬はすたれ、 石仏・石塔を墓石代わりにした土葬が増加。現在でも寺には約8000体もの石仏・石塔が置かれ、それらにロウソクを灯して死者を供養する「千灯供養」は化野念仏寺最大の行事となっています。
あだし野念仏寺
- 住所
- 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
- 交通
- 嵐電嵐山本線嵐山駅から京都バス清滝行きで10分、鳥居本下車、徒歩3分
- 料金
- 拝観料=大人500円、中・高校生400円/千灯供養=1000円/(30名以上の団体は現金一括払いで大人400円、中・高校生300円、障がい者手帳持参で本人のみ無料)
関西地方の伝説:貴船神社(きふねじんじゃ)の丑の刻参り伝説(京都府京都市)
恨む相手の髪か爪を入れてつくったわら人形に、五寸クギを打ち込んで呪いをかける「丑の刻参り」。発祥の地とされるのが貴船神社です。
貴船神社には「丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、貴船の神様が牛鬼を従者にして降臨した」という伝承があり、これが丑の刻参りの由来になったとされています。ただ、本来は水神を祀り、 古くから全国の料理・調理業や水を取り扱う商売の人々から信仰されている神社です。
今でもその広い境内をめぐっていくと、釘を打ちつけたような丸い穴がいくつも空いている木や、ときにはわら人形も見つかることもあるそうです。
貴船神社
- 住所
- 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180
- 交通
- 叡山電鉄鞍馬線貴船口駅から徒歩25分、または貴船口駅から京都バス貴船行きで5分、終点下車、徒歩5分
- 料金
- 水占みくじ=200円/水まもり=1000円/むすび守袋型=1000円/結び守=各1000円/御神水ラムネ=500円/
関西地方の伝説:池田屋騒動跡が伝える維新史の伝説(京都府京都市)
祇園祭でにぎわう京都の夜に起きた池田屋騒動。京都は三条通河原町の宿屋・池田屋惣兵衛方に、近藤勇ら新選組約30名が新選組が白刃をかざして討ち入り、たちまちのうちに多数の尊皇攘夷(じょうい)派の志士を斬殺し、捕縛しました。天下に新選組の名を高めることになったのが、この池田屋騒動です。
1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーを乗せた、いわゆる黒船が浦賀に来航しました。これ以降、開国か攘夷か、勤皇か佐幕か、幕末の日本は混迷を深めていきます。
徳川15代将軍・慶喜は混乱する京都の治安を回復するために、京都守護職を設置。会津藩主松平容保(かたもり)を任命し、尊皇攘夷派による天誅(てんちゅう)の横行を押さえ込もうとしました。当初、容保は相手に譲歩し衝突を避けようとしましたが、まもなく強硬策に転じ、新選組を使って尊皇攘夷派の活動を封じるようになります。
1864(元治元)年6月5日、新選組は四条寺町で武具商を営む桝屋喜右衛門を逮捕します。喜右衛門は近江出身の志士・古高俊太郎で、名を変えて商いをしていました。新選組は壬生(みぶ)の新選組屯所として使用していた前川邸で古高を拷問にかけた結果、驚くべき情報をつかみます。それは一説によると、今夜にも風が強まれば、御所に放火して乱入し、天皇を奪取するというものでした。新選組と守護職の会津藩に緊張が走ります。
新選組と会津の見廻組は二手に分かれて市中をしらみつぶしに探索しました。そして池田屋の2階に不審な男たちが集合していることを察知した新選組は、単独で突入。激闘は1時間余りに及び、長州藩の杉山松助、吉田稔麿(としまろ)、肥後藩の宮部鼎蔵(ていぞう)、松田重助、土佐藩の石川潤次郎ら9人が死に23名が逮捕されます。木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)は幸いにも難を逃れました。
新選組は京都の治安維持にあたり、尊皇攘夷運動を徹底して弾圧する強力な武力集団でした。その局長だった近藤勇は、1868(慶応4)年4月に官軍に捕らえられ斬刑となり、一番隊の隊長だった沖田総司(そうじ)もこの年の7月、結核で亡くなりました。副長の土方歳三は1869(明治2)年の箱館戦争のときに、新政府軍の銃弾に倒れてしまいます。
現在、池田屋の跡地は居酒屋となっています。「維新史蹟 池田屋騒動之址」と刻まれた小さな石碑が建つのみで、往事をしのぶには少し寂しくもあります。旧前川邸池田屋騒動の発端となった古高俊太郎が拷問された蔵は、非公開ですが今も残されています。
関西地方の伝説:血天井の伝説(正伝寺・養源院・宝泉院・源光庵) (京都府京都市)
見上げた天井の赤い染みは何なのか、京の寺に残る伏見城の遺構が伝える伝説があります。
京都市の南東部に位置する伏見(ふしみ)区。昔、戦国時代を生き天下統一を遂げた豊臣秀吉が、晩年になってこの伏見に造ったのが伏見城です。この城は、秀吉が自らの隠居所として築城したといわれます。
1598(慶長3)年、秀吉が息を引き取ったのもこの伏見城でした。秀吉の死後、徳川家康が代わってこの城で政務をとったこともあります。関ヶ原の戦いのときは家康の忠臣・鳥居元忠、内藤家長、松平家忠らが伏見城を守っていました。しかし、西軍の石田三成率いる4万余の大軍に攻められ、2000名足らずの城兵は全滅したといわれます。これが1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦の前哨戦といわれた伏見城の戦いです。
このとき元忠らが流した血に染まった床板は、京都市内の正伝寺(しょうでんじ) 、養源院(ようげんいん)、宝泉院(ほうせんいん)、源光庵(げんこうあん)などの寺にそれぞれ移築されたといいます。死んだ武将たちの霊を慰めるため、天井にして手厚く供養したのです。これらは、生々しい血の跡があることから「血天井」と呼ばれています。
北区西賀茂にある正伝寺の広縁の血天井は、元忠らが自害した際の血痕が残る廊下板を用いているといわれます。東山区三十三間堂の養源院の客殿天井に張られている血天井も、同じ廊下板だといいます。同様に床板を天井にして供養しているのが、左京区大原の宝泉院。北区鷹峯(たかがみね)の源光庵でも血天井が落城の悲劇を今に伝えています。源光庵は、室町時代に創建された寺で美しい借景庭園を観賞する丸い窓が趣深い古刹です。
源光庵
- 住所
- 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町47
- 交通
- 地下鉄北大路駅から市バス北1系統玄琢行きで15分、鷹峯源光庵前下車すぐ
- 料金
- 見学料=400円、500円(紅葉シーズン)/(障がい者手帳持参で本人のみ拝観料が半額)
関西地方の伝説:酒呑童子・首塚大明神の伝説 (京都府京都市)
首を切られても生き続ける怨霊伝説の酒呑童子とは、何者なのでしょうか。京都市内から国道9号を西に行くと、亀岡市に入ってすぐに老ノ坂(おいのさか)トンネルがあります。その手前の道を左に曲がって、しばらく進んだ先に見えてくるのが首塚大明神の鳥居です。首塚大明神、その不気味な名前に想像力をかき立てられます。
神社の由緒によれば、平安時代の初期、丹波国の大江山にいた酒呑童子(しゅてんどうじ)が京の都に出ては、金銀財宝を奪い婦女子をかどわかしていたといいます。
あるとき、天皇は源頼光ら四天王に酒呑童子の征伐を命じました。源頼光らは大江山に向かい、首尾よく酒呑童子の首を討ちとりました。そして京へ帰る途中、老ノ坂で休憩したときのこと。道ばたの地蔵尊が「鬼(酒呑童子)の首のような不浄なものは、都へ持ち込むことはならん」といいました。
四天王のひとり、坂田金時(さかたのきんとき)は相模(さがみ)国の足柄山(あしがらやま)で熊と相撲をとったという力持ちです。「証拠の品だから都へ持って行く」と言い持ち上げようとしましたが、ここまで持ってきた酒呑童子の首が持ち上がりません。そこで一行はやむを得ず、この場所に酒呑童子の首を埋めて首塚を造ったといわれています。
また、酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、「これからは首から上に病を持つ人々を助けたい」と言い残したとも伝えられ、首塚大明神は首より上の病気に霊験あらたかであるといいます。
酒呑童子については、大江山のふもとにある福知山市大江町にも次のような話が残っています。源頼光が首を討ち落とすときに、酒呑童子は「たとえ命は尽きるとも、魂は首にとどまって、宮中に飛び入り、恨みを晴らしてやる。思い知れ」とののしりました。そして酒呑童子は首を切られると、その首は火を吐きながら都に向かって飛んでいきました。
しかし天皇の威勢を恐れてか、丹波・山城国境の大江(大枝)の坂に落ちたといいます。後に酒呑童子の首は大江の坂に葬られて首塚明神と名付けられました。そこには地蔵堂が建てられ、悪鬼のたたりは静まったといいます。神社のあたりは今もひっそりとしてもっともらしい伝説の地です。一度霊験に触れてみてはどうでしょうか。
関西地方の伝説:七夕伝説発祥の地(大阪府交野市)
奈良県との県境にある大阪府交野(かたの)市は古来より巨岩信仰が盛んで、市内には多くの巨石が存在します。
たとえば、市の東部には標高341mの交野山(こうのざん)がそびえていますが、その山頂には「観音岩」と呼ばれる1辺約15mの巨大な岩石が鎮座しています。観音岩の側面には梵字が刻まれており、そのことから岩が人々の間で崇拝されていたことがうかがえます。
交野市は「七夕伝説発祥の地」として知られ、北斗七星の降臨伝説など星にまつわる伝承も残されています。そしてこれらの伝説も岩石が関与した出来事がルーツになったと考えられているのです。それは、816年に起こったとされる隕石の落下です。
記録によると、飛来した隕石は市の南西部の妙見山に落下し、その結果、山の大部分が吹き飛ばされたといわれます。この事件が語り継がれていく中で、いつしか七夕にまつわる伝説が生み出されていったと推測されます。
妙見山の小松神社(星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう))には「織女石(たなばたせき)」という巨石が残り、市内には天野川が流れています。
関西地方の伝説:千日前の由来と伝説(大阪府大阪市)
江戸時代の墓地・刑場のイメージを払拭、娯楽街に生まれ変わった千日前(せんにちまえ)の由来をご存知でしょうか。千日前といえば、なんばグランド花月などの演芸場や飲食店が建ち並ぶ、大阪屈指の繁華街。今でこそお笑いやショッピングを楽しむ人々でにぎわっていますが、江戸時代は千日前は下難波村と呼ばれ、焼き場、刑場を併設した大阪随一のうら寂しい墓所でした。そして、千日墓と刑場の近くにあるのが法善寺でした。
1615(元和元)年、大坂夏の陣の後に、焦土と化した市中を整備するため、大坂城主・松平忠明が墓地の移転、統合をしたのがその始まりです。「千日前」の名は、法善寺(ほうぜんじ)が千日念仏回向を行ったことに由来するといいます。1637(寛永14)年開山の法善寺は、その通称が千日寺であり、法善寺横丁は、織田作之助の小説『夫婦善哉(めおとぜんざい)』でも有名です。
明治維新後、1870(明治3)年に刑場は廃止され、墓地と火葬場は阿倍野(天王寺村)に移転することになりました。千日前もいざ再開発となりますが、もともとは墓地に刑場。首洗い井戸や火葬で出た灰が積み上げられた灰山が残る千日前の土地には、なかなか買い手がつきません。それでも、千日前歓楽街の祖、奥田弁次郎・ふみ夫妻がこの土地を購入し、見世物小屋などを出し始めると、次第に陰惨なイメージは変わっていきます。そして、1885(明治18)年に南海電気鉄道の難波駅が開業すると千日前は一気に発展。芝居小屋や寄席、映画館が建ち、今の千日前の原型ができました。
その後、1912(明治45)年の大火災(ミナミの大火)で千日前一帯は焼け野原になりますが、翌々年には総合娯楽場「千日前楽天地」が完成。ドーム型の屋根をもつ個性的なデザインの建物で、ハイカラな娯楽施設として人気を博しました。これ以降、周辺には演芸場や飲食店が軒を連ねるようになります。
松竹では、1934(昭和9)年、千日前に大阪松竹歌劇団の拠点、大阪劇場(大劇)を設け、1967(昭和42)年の閉鎖まで華やかなレビューが行われていました。現在のなんばオリエンタルホテルがその場所です。楽天地の跡地は、大阪歌舞伎座を経て千日デパート、そして現在はビックカメラなんば店が建っています。今も娯楽街・千日前を象徴する、人々が集う場所であることに変わりはありません。古道具屋や雑貨商が軒を連ねたあたりは現在、千日前道具屋筋商店街になっています。そして今も繁華街の中には墓地が残っています。
関西地方の伝説:堺事件の壮絶な舞台・妙国寺(大阪府堺市)
土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件「堺事件」の壮絶なラストシーンの舞台に伝わる伝説の舞台は、堺東駅近くにある妙国寺です。
総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽(たちま)ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好(よ)く見て置け」(森鷗外『堺事件』より)
大阪湾に面し漁港や貿易港として古くから発展してきた堺ですが、幕末の頃は開港場ではなく、外国人が許可なく入ることはできませんでした。そんな堺港にフランス人水兵20名余りが上陸したのは1868(慶応4)年2月15日のこと。無断で上陸できないことなどおかまいなしに市内を歩き、寺社仏閣に立ち寄ったり、女性をからかったり。見慣れない外国人の姿に恐れおののく市民も多かったといいます。
知らせを受けて出動したのが、当時堺の治安維持にあたっていた土佐藩警備隊でした。警備隊は何とか彼らを船に戻らせようとしますが、通訳もなく交渉すらできません。そんな中、水兵のひとりが警備隊をからかい、隊旗を奪い逃げようとしました。阻止しようとするもやがて銃撃戦となり、フランス人22名を殺傷──。これが堺事件の全容です。
この堺事件により被害を受けたとするフランス側は、土佐藩主の謝罪、殺傷に加担した者20名の処刑、遺族への賠償金などを要求し、政府側もこれを全面的に受諾します。同年2月23日、妙国寺(みょうこくじ)の本堂庭で始まった切腹。そのひとり目が冒頭で引用した土佐藩士隊長・箕浦猪之吉(みのうらいのきち)です。25歳の彼は、最期に自分の内臓をつかみ出し、立ち会うフランス人士官に見せつけたといいます。さらに次々と腹を切る隊士たちの、その凄惨な光景。目の前の出来事に耐えられなくなったフランス公使レオン・ロッシュは11名が切腹した時点で中止を命じ、退席しました。
妙国寺は朝廷の勅願寺(ちょくがんじ)であったために埋葬が許されず、箕浦ら11名の亡骸は向かいの宝珠院(ほうじゅいん)に葬られました。妙国寺の境内の、土佐十一烈士の割腹跡には11人の名が刻まれた「烈士十一人記念碑」が建てられています。1938(昭和13)年、国の史跡に指定された「土佐十一烈士墓」は、幕末開国期における外交関係の模様を、静かに語り続けているようです。宝珠院にある土佐十一烈士墓の傍らには、12番目に切腹するはずであった橋詰愛平の墓があります。
日本の伝説:中国・四国編
中国・四国地方の伝説:温羅伝説と桃太郎(岡山県)
誰もが知っている『桃太郎』の昔話。その元となったのが、岡山に伝わる二つの温羅(うら)伝説です。吉備津神社に伝わる『吉備津宮縁起(きびつみやえんぎ)』と吉備津彦神社に伝わる『吉備津彦神社縁起』です。
吉備津神社に伝わる『吉備津宮縁起(きびつみやえんぎ)』には、「崇神(すじん)天皇の時代、百済(くだら)の王子・温羅が吉備国に飛来して吉備 国新山に居城を構え略奪を行いました。そこで大和朝廷は吉備津彦命(きびつひこのみこと)に、温羅討伐を命じます。吉備津彦命は吉備の中山(なかやま)に陣を構え、温羅を弓矢で攻撃。温羅も城から弓矢で迎え撃ち、激しい戦いとなります。戦いで傷を負った温羅は鯉に姿を変えて逃げますが、吉備津彦命は鵜に姿を変えて温羅を捉えます。打ち取られた温羅の首は吉備津神社の御釜殿(おかまでん)の下に埋められますが、何年たってもうなり声が止みません。ある日吉備津彦命の夢に温羅が現れ、『自分の妻にこの釜を使って米を炊かせろ。そうすれば釜の音で世の吉凶を占おう』と告げます。こうして今でも吉備津神社では、吉凶を占う『鳴釜(なるかま)神事』が執り行われている」と記されています。
一方吉備津彦神社に伝わる『吉備津彦神社縁起』では、吉備津彦命と温羅が戦い温羅が敗れるところまでは同じです。しかし温羅は成敗されず、吉備津彦命に仕えて吉備国を治めたとされています。
この温羅伝説が時代とともに変遷し、室町時代末期に『桃太郎』の物語が生まれたと考えられています。
中国・四国地方の伝説:石井十次と三友寺・岡山孤児院跡(岡山県岡山市)
児童福祉の父・石井十次は、濃尾大地震の犠牲となった孤児を救済した人物です。1945(昭和20)年の岡山大空襲にも焼け残った山門が岡山市内にあります。寺の本堂は焼失してしまいましたが、この三友寺(さんゆうじ)はかつて、日本の児童養護施設の先駆け「孤児教育会(後の岡山孤児院)」があった場所。創設者は「児童福祉の父」といわれる石井十次(いしいじゅうじ)です。
1865(慶応元)年、石井十次は日向国(ひゅうがのくに)(現在の宮崎県)の高鍋藩下級武士の家に生まれました。17歳のときに岡山県の医学校(現在の岡山大学医学部)へ入学し、その後キリスト教教会で受洗。1887(明治20)年、県内の診療所で実習中に貧しい女性の子を預かったことをきっかけに孤児救済を始めます。石井十次は「人は二主に仕うること能わず」という聖句に従い、孤児救済に一生を捧げたのです。
災害や戦争のたびに犠牲となる多くの子供たち。石井十次は日本全国を奔走し、名古屋地方を襲った濃尾(のうび)大地震や日露戦争、東北地方の大凶作などで路頭に迷った孤児たちを次々に受け入れました。1906(明治39)年の岡山孤児院の収容人数は、1200名に達したといわれています。石井十次は後に院児10名をともない、郷里の宮崎県にある茶臼原(ちゃうすばる)へ移住しますが、1914(大正3)年に48歳で持病の腎臓病により亡くなりました。
30年近くを費やして誠心誠意取り組んだ石井十次の児童救済事業は関係者に引き継がれ、今日も活動が続けられています。
中国・四国地方の伝説:野山獄・岩倉獄跡に残る伝説(山口県萩市)
殺傷事件の場が維新史の重要拠点となった野山獄。記念碑に当時をしのぶ長州藩の獄舎跡が残っています。
1645(正保2)年9月17日の夜、長州藩士・岩倉孫兵衛は酒に酔って、道を隔てた西隣の同じく藩士・野山六右衛門の屋敷へ斬り込み、家族を殺傷しました。この事件によって岩倉は斬首刑に処せられます。その後、喧嘩両成敗で両家は取りつぶしとなり、屋敷は藩獄に。野山獄は士分の者を収容する上牢、岩倉獄は庶民を収容する下牢となったのです。
それから、およそ200年余り後の1854(安政元)年、伊豆下田で海外密航を計画して失敗に終わった吉田松陰(しょういん)は、弟子の金子重輔(重之助)とともに故郷の萩に戻され、松陰は野山獄に幽閉されます。一方、岩倉獄に入れられた金子は、食事もろくに与えられない環境によって衰弱していきます。松陰は金子の状況を聞き及び、医者に診せるか自分のいる野山獄に移すよう嘆願しますが、わずか2カ月後、金子は25歳の若さで獄死しました。
松陰は出獄するまでの間、ここで前例のない教化活動を行います。獄中にて囚人に講義を始めたのです。孟子を講義したり、自らも書や詩を学びました。松陰の講義は人々を惹きつけ、獄吏も廊下で耳を傾けていたといいます。出獄後は、叔父が開いていた私塾の松下村(しょうかそん)塾を引き継いで主宰者となり、身分の隔てなく塾生を受け入れました。ここからは木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(しんさく)、伊藤博文(ひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)といった維新の指導者たちが多数輩出されています。
野山獄はまた、維新前の文久・元治年間には、藩内の抗争に際して高杉晋作ら多くの志士がつながれ、正義派(革新派)および俗論派(保守派)の活動家たちが処刑される場所ともなりました。長州藩士吉田松陰はその後、安政の大獄により、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。
野山獄に当時の遺物は残されていませんが、現在、敷地の一部を保存しています。記念碑などが設けられ、一般にも公開されています。岩倉獄も同様に、金子重輔絶命の詩碑や獄中で没した人々の供養のための慰霊塔が建てられています。
静岡県下田市にある弁天島の広場には、松陰と金子のふたりをかたどった像があります。松陰が遠くを指さし、その方角をふたりが見据えています。日本の開国を目前に、まだ見ぬ海外に思いを馳せる胸の内が伝わってくるようです。
日本の伝説:九州・沖縄編
九州・沖縄地方の伝説:阿蘇創造のものがたり「健磐龍命(たけいわたつのみこと)蹴裂(けさき)伝説」(熊本県阿蘇市)
阿蘇カルデラの内側には広々とした平原が広がり、鉄道や国道も整備され、実に4万人もの人々が農業や酪農で生活を営んでいます。こうした例は世界でも極めて珍しいのです。実は、この阿蘇カルデラにも、かつては湖がありました。それが消失して草原化したのは、海面上昇で大陸と切り離された日本がようやく現在の形になった、約1万2000年前の縄文時代初期のこととされています。
実は、この阿蘇カルデラにも、かつては湖がありました。それが消失して草原化したのは、海面上昇で大陸と切り離された日本がようやく現在の形になった、約1万2000年前の縄文時代初期のこととされています。その阿蘇では、古来より次のような伝説が語り継がれています。
その昔、阿蘇の火口原に水がたまり、大きな湖になっていた頃のこと。健磐龍命(たけいわたつのみこと)(阿蘇都彦命(あそつひこのみこと)とも)は、満々と水をたたえた阿蘇谷を見て、「この湖水を干せば良田となろう」と考え、外輪山を一蹴りしますが、外輪山が二重になっていたため失敗。そこでもう少し南に下って弱そうな所を見つけ、再び蹴りをいれると、山はひとたまりもなくこわれ、湖水がゴウゴウとすさまじい音を立てながら流れ出しました。そこが、立野火口瀬と呼ばれるところで、今も阿蘇谷(中央火口丘北側の火口原)から流れる黒川、南郷谷(同、南側の火口原)から流れる白川がここで合流し、熊本平野を潤しながら有明海へと注いでいます。
また健磐龍命は、外輪山を力任せに蹴った際、勢い余って尻餅をつき、しばらく立ち上がることができず、心配する周囲の人々に「立てんのう!」とつぶやきました。そこで「立野」という地名が生まれたということです。
九州・沖縄地方の伝説:田原坂の戦いが伝える最後の内乱の伝説(熊本県熊本市)
西郷隆盛率いる薩摩軍と官軍の死闘、田原坂の戦い。日本最大にして最後の内乱の激戦地に伝わる伝説があります。田原坂(たばるざか)公園は桜やツツジの名所として知られ、春には地元の人たちでにぎわいを見せます。大勢の人が花を愛でつつ憩うその場所こそ、今から約140年前、西南の役最大の激戦である田原坂の戦いが繰り広げられた地です。
明治政府の要職を辞して郷里の鹿児島に戻り、私学校を開いていた西郷隆盛は、1877(明治10)年2月、政府に反旗を翻して挙兵。1万3000の薩摩兵を率いて北上しました。南下する官軍を阻止すべく凄絶な攻防を展開することになったのが、田原坂の戦いです。
熊本城主であった名将・加藤清正(きよまさ)は、かつて田原坂に続く約1.5㎞の道の両脇に土手を築いてここを通る敵を攻撃しやすいように変え、田原坂を熊本城防衛の要としていました。一の坂、二の坂、三の坂と続く1.5kmの曲がりくねった道。田原坂の戦いの当時、田原坂は大砲や荷馬車を引いて通過できる唯一の道だったのです。西郷軍はこの地形を利用して、17日間にわたり官軍の猛攻をしのぎ続けたのです。しかし、旧式の武器に火薬・砲弾・食糧の不足が災いして、田原坂の戦いは薩摩軍が敗北を喫する結果に終わりました。
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
熊本の民謡にも歌われているように、幾日も雨が降り続く戦いで、薩摩軍兵は「我々は天下無敵だが、一に雨、二に大砲、三に赤帽は苦手である」とこぼしたといいます。大砲は官軍が使用した炸裂弾の大砲で、赤帽とは白兵戦に強い敵の近衛兵を指したもの。そして、雨に弱い旧式の銃を使用していた薩摩軍が最も恐れたのが雨だったのです。
田原坂の陥落後、薩摩軍は官軍の熊本城入城を阻止すべく抗戦しましたが、激戦地を制した余勢を駆って官軍は快進撃を見せました。これにより薩摩軍は攻撃の太鼓を打ち鳴らしながらも熊本を追われ、宮崎、鹿児島へと敗走を余儀なくされてゆくのです。
田原坂の戦いの凄まじさを伝える遺品が、田原坂公園内に設けられた熊本市田原坂西南戦争資料館に収められています。特筆すべきは「空中かちあい弾」と名付けられた展示物。両軍が撃った弾丸が空中で衝突してできたものらしく、弾が弾にめりこんでひとつになっていたり、ぶつかった衝撃で変形している銃弾もあります。銃弾が空中で衝突するとは、にわかには信じがたいですが、官軍が一日に使用した小銃弾は32万発にも及んだというから、それほど壮絶な戦いであったのでしょう。
田原坂公園には慰霊塔も建立されています。西南の役戦没者慰霊の碑には戦没者の名が刻まれており、官軍、薩摩軍合わせて記された数は1万4000名に上ります。熊本市田原坂西南戦争資料館の隣に復元された弾痕の残る家は、激戦の生々しさを伝えています。
九州・沖縄地方の伝説:原城跡と天草四郎伝説(長崎県南島原市)
鉛のクルスが出土する理由とは。原城跡からよみがえる血塗られた歴史、天草四郎伝説が伝える悲しい史実があります。
領主の圧政に不満を爆発させたキリシタン農民らが一揆を起こし、反乱した島原の乱。その最後の舞台として彼らが立てこもった原城跡では、1992(平成4)年より数次にわたる発掘調査が行われました。その結果、原城跡で国内でも類を見ないほどキリシタン遺物が数多く出土。おびただしい数の人骨や火縄銃の弾とともに、鉛製のクルス(十字架)、聖母マリアやキリストが描かれたメダイ(メダル)、ロザリオの珠などが発掘されています。
厳しい年貢の取り立て、さらに改宗を拒む信者への弾圧を背景に島原で一揆が勃発したのは1637(寛永14)年のこと。島原での一揆に呼応して、天草でも弾圧に苦しむ農民が蜂起しました。幕府が暴徒鎮圧のために大軍を差し向けると、島原と天草の一揆軍は、合流して島原の廃城であった原城にこもりました。原城は有明海に面した41haもの広大な城域をもつ県下最大の城。幕府の威信をかけてこの反乱を抑えたい将軍徳川家光は、老中の松平信綱(のぶつな)率いる援軍を送ります。およそ3万7000人の一揆軍に対して、幕府側の動員数は12万。一揆軍は長期戦を戦い抜きますが、88日間の籠城の末、ついに力尽きます。落城後は女性や子供までが皆殺しにされたといいます。
島原の乱といえば、歴史ファンならずとも名前を連想するのが天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)でしょう。一説によると、天草四郎の正体はキリシタン大名・小西行長(ゆきなが)の遺臣であった益田甚兵衛(じんべえ)の子の益田四郎とされています。実像は謎に包まれていますが、神の子とあがめられた美少年のイメージが強い天草四郎。幼少より利発で、長崎に学んでラテン語を話し、洗礼を受けたのだとか。四郎が救世主として反乱軍の総大将に据えられたのは、小西行長の遺臣らによって仕組まれた策謀によるものという見方が有力です。
天草四郎に率いられたキリシタンは、火縄銃の鉛弾を溶かして作ったクルスを所持していたらしいことが調査により判明しました。しかも、人骨の顔付近からクルスやメダイが出土することが多いため、死の直前にキリシタンたちがこれらを握りしめて最期の祈りを捧げたのではないかと推測されています。原城本丸にいた天草四郎の首は細川藩士陣佐左衛門によって討ち取られ、長崎の出島で晒されたといいます。
キリシタンたちの最期の物語にさらに悲しみの色を添える話があります。彼らは信仰に身を捧げたにもかかわらず、正式な「殉教者」と呼ばれることはないといいます。カトリック教徒はローマ法王から認められて初めて殉教者となるのですが、その教義で「地上の王(為政者)に逆らってはならない」と決められているからです。自らの正義を信じて天に召された多くの魂は、かの地で何を思っていることでしょう。
九州・沖縄地方の伝説:日本二十六聖人殉教の地の伝説(長崎県長崎市)
キリスト教徒迫害の最初の犠牲者、日本二十六聖人は、西坂の丘で磔にされたといいます。
1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し日本に初めてキリスト教を伝えたその翌年、長崎の平戸にもキリスト教布教の波が訪れました。1571(元亀2)年にキリシタン大名の大村純忠(すみただ)が開港を決めると、長崎は一気に貿易の町、キリスト教の町としての色を帯びるようになります。
その長崎に大きな衝撃が走ったのは1597(慶長2)年2月5日。西坂の丘で26人のカトリック信徒の処刑が行われたのです。ことの発端は、前年に土佐に漂着した1隻のスペイン船。豊臣秀吉は、サン・フェリペ号という名のこの船の調査を命令。これによって積み荷は没収され乗組員はマニラに送られました。このときの「スペインは領土征服のために宣教師を手先として送り込んだ」という船員の失言が、日本のキリシタンの運命を変えました。この言葉を信じてしまった秀吉が、京都と大阪の宣教師・信徒らを処刑するよう命じたのです。
ただちに捕らわれの身となったのは24人。京都で左耳をそがれ、牛車で町中を引き回された後、処刑が執行される長崎へと一行は歩いて向かいました。道中、信仰のために命を捧げることを決めたふたりが加わります。日本人20名、スペイン人4名、そしてメキシコ人とポルトガル人が1名ずつ。厳冬の中、空腹と疲労に耐えながらおよそひと月をかけて、一行は長崎に到着します。1000kmの道のりを1カ月かけて歩いた聖人は彼杵(東彼杵町)で船に乗り、時津の地に上陸しました。捕らわれた者の中には12歳の少年もおり、気の毒に思った者が信仰を捨てることを条件に命を助けようと働きかけますが、少年は丁重にこの申し出を断ったといいます。
最後の夜を護送の船の中で過ごした一行は、翌朝、時津(とぎつ)街道を歩いて西坂の処刑場へと連行されます。町の混乱を避ける目的で外出禁止令が出されていましたが、刑場には4000人を超える人が集まりました。人々が見守る中、磔(はりつけ)の刑に処せられた26人は口々に信仰の言葉を発しながら槍に突かれて果てたのです。
遺骸はその後、日本で最初の殉教者として世界各地に送られ信者の崇敬を集めました。1862(文久2)年、ローマ教皇ピウス9世によって彼らは聖人に列せられ、以降「日本二十六聖人」と呼ばれるようになりました。キリスト教徒が信仰の自由をようやく手にしたのは明治になってからのことです。1962(昭和37)年には、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館と、殉教者たちの等身大のブロンズ像がはめこまれている日本二十六聖人殉教記念碑が建てられ、今も訪問者に、その悲しい歴史を伝えています。また、現存する日本最古といわれる教会の大浦天主堂は、二十六
聖人に捧げられています。
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