更新日: 2024年9月9日
日本の『伝説』あれこれを読み解く~あなたはどれだけ知っている?!史実とともに語り継がれる言い伝え~
日本各地に伝わる伝説の数々。その中には、史実から伝説となったものもたくさんあります。
まずは有名なあの話から、始めていきましょう。
日本の伝説:北海道・東北編
北海道の伝説:瞰望岩に残る湧別・十勝アイヌの古戦場伝説(北海道遠軽町)
北海道の北東、オホーツク地域にある遠軽町。北海道では珍しいスイッチバック式の遠軽駅に降り立つと、目に飛び込んでくるのが天に向かってそびえ立つ高さ75mの瞰望岩(がんぼういわ)です。町のどこからでも見ることのできる瞰望岩は、アイヌ語で「インガルシ」(「見晴らしのよいところ」の意味)と呼ばれ、町名の由来にもなっています。まさに町のシンボル的存在である瞰望岩は、アイヌの人々の戦いの舞台となったことでも知られてます。
その昔、湧別(ゆうべつ)アイヌと十勝アイヌが狩猟区をめぐって対立し、争いが起きました。激しく攻められた湧別アイヌは、この瞰望岩を最後の砦として応戦し、激戦が続きました。そんなある夜、暴雨風で岩の東側を流れる湧別川が氾濫。優勢だった十勝アイヌは濁流にのまれてしまい、多数の死者が出たという伝説です。
激しい攻防が繰り広げられた伝説の場所である瞰望岩も、今は穏やかな観光スポット。わずか数分で登れる瞰望岩の頂上からは遠軽町を一望のもとにでき、「インガルシ」を実感できるでしょう。また、瞰望岩がある一帯は「太陽の丘えんがる公園」として整備され、春の芝桜や夏のヒマワリなど、季節の花々が咲き乱れます。秋には広大な敷地に1000万本ものコスモスが咲き誇るといいます。
北海道の伝説:三毛別羆事件(北海道苫前(とままえ)町)
三毛別羆事件復元地は、腹を空かせた大グマが10名を殺傷、開拓村を襲った獣害史上最大の惨劇の地です。1915(大正4)年、北海道の苫前村三毛別(さんけべつ)の開拓村に巨大なクマが出現、史上最悪の熊害事件「三毛別羆(ひぐま)事件」が発生しました。
悲劇は12月9日午前、集落の一軒、太田家から始まります。身の丈2・7m、体重340㎏余の大グマが家に入り込み、戸主の妻まゆと6歳の男児を撲殺。まゆの遺体をくわえ、現場を去りました。翌日捜索隊が遺体を見つけるも、クマを捕らえることはできませんでした。その晩、恐るべきことに通夜の場に再びクマが出没。その場を荒らし、さらに、老人や女性、子供10名が避難していた明景(みよけ)家へと向かったのです。
繰り返された惨劇。目の前で6歳、3歳の我が子を殺された斉藤家の妻たけは、自らも臨月。クマは「腹破らんでくれ!」と叫ぶ彼女を襲い、腹を引き裂きました。胎児を含め7名を殺し、3名に重傷
を負わせた極悪グマ。大規模な討伐隊が結成され、クマ討ち名人・山本兵吉に仕留められたのは12月14日のことでした。クマが絶命するとにわかに空が曇り、大暴風雪となったといいます。人々はこれを「熊風」と語り継ぎました。
現在、事件の跡地には、最も多くの被害を出した明景家をもとに復元された当時の開拓小屋があり、巨大なクマが開拓小屋を襲う当時の様子が復元されています。また、近くの三渓神社境内には、この事件を機にクマ退治を決意したという大川晴義が、100頭目を仕留めたときに建立した熊害慰霊碑が建っています。
北海道の伝説:常紋トンネル (北海道北見(きたみ)市)
強制労働による常紋トンネル工事殉難者たち。石北本線を見下ろすレリーフの思いを辿ってみましょう。
雨の日に常紋(じょうもん)トンネルを通ると「腹へった、ママくんろ」という声が聞こえる───そんな幽霊話をいつ頃からか、地元の人たちはささやきはじめたといいます。どこからそのような話が出てきたのかはっきりしませんが、金華(かねはな)の丘に石北本線を見下ろすように建っている「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」には次のように記されています。
「常紋トンネルは、大正元年から三年の歳月をかけ、本州から募集された人々の強制労働によって建設されました。工事の途上、粗食、重労働、リンチなどによって殉難された方がたは、百数十人以上と伝えられています。
この鉄道によって限りない恩恵を受けている私たちは、無念の死をとげた方がたを追悼し、北海道開拓の歴史から葬られてきた人びとの功績を末永く後世に伝え、ふたたび、人間の尊厳がふみにじられることのないよう誓いをあらたにしてこの碑を建立します。」
常紋トンネルのある留辺蘂(るべしべ)は北見市の西に位置し、農業と林業を中心に発展してきました。その発展の原動力となったのが、1916(大正5)年に開通した湧別線(現在の石北本線)です。周囲を山に囲まれている村にとって、道路や鉄道の整備は人々の長年の悲願でした。完成時には村民の多くが将来への明るい希望を抱いたことでしょう。しかしそんな光とは対照的に、語られることのない影の部分もあったようです。
山岳地帯に属するこの地では、鉄道工事は困難をきわめました。当時の鉄道史料に「密林うっ蒼として昼なお暗く、時に猛獣の出没するあり。人跡未到の地」と書かれており、想像を絶する厳しい工事だったことがうかがえます。とくに全長507mもの常紋トンネルは、いちばんの難工事でした。常紋トンネルの碑にあるように強制労働によって亡くなった人たちも多いのです。常紋トンネル周辺からは、強制労働で亡くなった人々の人骨が発見されています。
高さ5mのレンガ造りの碑の中央には、つるはしを持った労働者のレリーフが取り付けられています。めい想する彼の先に走っているのは、石北本線です。地域の発展の基礎を築いたとはいえ、たくさんの犠牲者を生んだ常紋トンネル工事。レリーフの彼は、かつての仲間や地元の人たちを見守っているようです。
東北地方の伝説:白鳥信仰とヤマトタケル伝説(宮城県)
県北の伊豆沼・内沼を中心に、宮城は国内最大級の水鳥の越冬地といわれています。県南の白石川周辺も白鳥の飛来地となっていますが、この地域では、白鳥を神の使いとして崇める白鳥信仰が根付いています。
蔵王町の刈田嶺神社は、祭神のヤマトタケルが死後に白鳥に生まれ変わったという白鳥伝説の広まりとともに、白鳥明神を祭って白鳥大明神という別号を持つようになり、信仰の中心地になっていきました。
拝殿には、白鳥を画題とした絵馬(額絵)が数多く飾られ、信仰の厚さを物語っています。また神社裏手には、白鳥を浮き彫りにした5つの石碑「白鳥古碑群」が並んでいます。江戸時代に建てられた白鳥の墓碑で、一番古いものは1673(寛文13)年の建立です。かつて、この場所に死んだ白鳥を葬っていたといいます。このほか、村田町、柴田町など県南の多くの地域に白鳥神社が分布し、大河原町の大高山神社にも白鳥信仰の歴史が残っています。
東北地方の伝説:八甲田山雪中行軍遭難事件(青森県青森市)
猛吹雪の中で次々と失われていく命、凄惨を極めた八甲田山雪中行軍遭難事件は、今から120年のほど前の明治時代に実際に起きた遭難事件です。
八甲田山(はっこうださん)は八甲田大岳、田茂萢岳(たもやちだけ)などからなる連峰で、日本百名山のひとつ。初夏の新緑や秋の紅葉がすばらしいのですが、冬には雪も深い場所です。この八甲田山で八甲田山雪中行軍遭難事件が起きたのは、1902(明治35)年1月の下旬。青森陸軍歩兵第5連隊210名のうち、実に199名が犠牲となりました。事件は緊迫する日露関係を背景に、冬の青森に敵が侵入した場合、進軍が可能かどうかを調査する陸軍の冬季訓練中に発生。青森から田代まで1泊の雪中行軍の予定でした。
●1日目 1月23日
朝から行軍を開始、昼頃から天候が悪化します。午後4時頃、馬立場(うまたてば)に到着。先遣隊として、田代に15名の設営隊を向かわせますが猛吹雪で迷い、本隊と偶然にも合流。田代には到着できず、午後9時、雪濠で露営を決めました。
●2日目 1月24日
深夜の気温はマイナス20℃以下。帰営を決定し、午前2時半に出発するも、ほどなく鳴沢(なるさわ)渓谷に迷い込みます。猛吹雪の中で露営地に戻ろうとしますが、方向を誤って駒込(こまごめ)川本流へと出ます。夕方、狭いくぼ地を発見、露営地と決めます。空腹、睡魔、猛吹雪が隊員を襲いました。この日は途中の渓流、崖、露営地などで3分の1の兵士を失っています。
●3日目 1月25日
吹雪の中、午前3時頃出発しますが再び迷い、露営地に戻ります。午前11時半頃、ルートの開拓に出ていた高橋伍長が戻り、帰路発見という報告にともない再出発。午後3時頃に馬立場に到着しますが、途中落伍者も続出。食糧、燃料もないまま露営することになりました。凍死者多数。
●4日目 1月26日
神成大尉、倉石大尉の二手に分かれます。倉石大尉のグループは、駒込川の青岩付近で断崖に阻まれ動けなくなりました。神成大尉のグループは帰路を発見しますが、猛吹雪の中で全員が倒れ、ただひとり後藤伍長が、雪中に仮死状態で立っているところをようやく発見されました。その後、救援隊により奇跡的に17名(四肢健全だったのはわずか3名)が助けられましたが、治療中に6名が死亡。すべての遺体が収容されたのは、5月28日でした。八甲田山雪中行軍遭難事件がこのような大惨事となった原因は悪天候、不十分な装備、調査不足などが重なったものといわれています。
現在、この八甲田山雪中行軍遭難事件に関する展示を行うのが、青森市の郊外にある八甲田山雪中行軍遭難資料館です。資料館の裏手には遭難者を慰霊する幸畑(こうばた)墓地(史跡天然記念物)があり、馬立場には最初に発見された後藤伍長の像が建っています。八甲田連峰の高田大岳、雛岳のふもとに広がる田代高原は、初夏にはレンゲツツジが咲き乱れています。山麓に温泉が湧き、南には十和田湖や奥入瀬(おいらせ)渓谷がある八甲田山一帯は、東北でも有数の観光地。そこには美しく厳しい自然があるのです。
八甲田山雪中行軍遭難資料館
- 住所
- 青森県青森市幸畑阿部野163-4
- 交通
- JR青森駅から青森市営バス田茂木沢・田茂木野行きで30分、幸畑墓苑下車すぐ
- 料金
- 大人260円、高・大学生130円、中学生以下無料(70歳以上無料、障がい者半額、20名以上の団体は大人130円、高・大学生60円)
東北地方の伝説:デンデラ野の姥捨て山伝説(岩手県遠野(とおの)市)
遠野郷のデンデラ野は、民話の里・遠野に伝わる棄老伝承、老人たちがただ死を待った姥捨て山の話です。民俗学者・柳田國男の『遠野物語』は、遠野に伝わる説話をまとめたもの。河童や座敷わらしも登場するその物語の中に、姥捨て山『デンデラ野』の話が記されています。
遠野には、ダンノハナという地名がいくつかありますが、その近くには必ずデンデラ野という場所があります。そのひとつが『遠野物語』の語り部、佐々木喜善(きぜん)の生家の裏手の丘陵です。この地方では昔、60歳を過ぎた老人たちはデンデラ野に捨てられ、野中の小屋で寄り添いながら共同生活をしたといいます。貧しい山村であるうえ、飢饉も多かった時代、労働力にもならない老人は口減らしの対象になったのでしょうか。昼はデンデラ野から里に下り、野良仕事をすることもあったといいますが、その身はすでに現世から追いやられたもの。自分の余命と向き合い、いずれ来る死をデンデラ野で静かに待つしかなかったのです。
また、村に死者が出ると、それに先立って霊がデンデラ野を通るという話も伝わっています。男が死ぬなら馬を引いて山歌を歌い、女が死ぬならすすり泣きをしたり、あるいは声高に話をしながらデンデラ野を通り過ぎたそうです。これらの説話からは、今の時代にはなかなか感じられない生死の生々しさが漂います。現世とあの世の境界・遠野の景色を眺めながら、その世界に思いを馳せましょう。デンデラ野のある土淵町山口の橋には、姥捨て山に向かう親子のレリーフがあります。
東北地方の伝説:アテルイと胆沢城にまつわる伝説(岩手県奥州(おうしゅう市)
蝦夷征伐の攻略拠点だった広大な胆沢城で、アテルイは10年以上にわたり朝廷群と戦いました。朝廷軍・坂上田村麻呂による蝦夷征伐と「悪路王」と恐れられた首長アテルイの実像は、どのようなものだったのでしょうか。
7世紀頃、宮城県・山形県以北の東北から北海道に暮らす部族を「蝦夷(えみし)」といいました。『日本書紀』の一節には「東の夷(ひな)の中に、日高見国(ひたかみのくに)がある。その人たちを蝦夷という。勇悍(ゆうかん)な人たちである。土地が肥えていて広い。征服して領土とすべき」とあります。日高見は今の北上川流域。未開のこの地方は魅力的であり、朝廷は支配下に置くべく、頻繁に蝦夷討伐の軍を出すようになりました。
789(延暦8)年、征夷大将軍・紀古佐美(きのこさみ)が5万余の兵を率いて胆沢(いさわ)に進軍(「征夷大将軍」は、蝦夷を征討するために任命された将軍のこと)。しかし、蝦夷の巧みなゲリラ戦で多くの戦死・負傷者を出し、大打撃を受けました。蝦夷の軍勢を率いたのが、後の田村麻呂伝説で「悪路王(あくろおう)」「赤顔」などと悪者として語られるアテルイ(阿弖流為)です。
このアテルイの「胆沢の合戦」の大敗を受け、朝廷は兵力を整え、再び胆沢遠征を実行します。794(延暦13)年の第2回遠征には、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が副将軍として臨みます。このときの陣容は、兵士10万人の大規模なもの。さらに田村麻呂が征夷大将軍となった801(延暦20)年の第3回遠征では兵士4万人を率い、アテルイ率いる蝦夷軍と戦いました。
802(延暦21)年、田村麻呂は蝦夷の攻略拠点として胆沢城を築城。一辺675mの方形で、周囲を築地塀で囲んだ城の広さは、東京ドーム9つ分という壮大なスケールです。侵略を受けた蝦夷は、次第に朝廷の支配体制に組み込まれていくこととなりました。
10年以上にわたって続いた長期戦。大半の戦士を失ったうえ、多くの集落を焼き討ちされた蝦夷軍は疲弊し、同年7月、ついにアテルイと仲間のモレは500人余の兵を率いて降伏、田村麻呂に従い平安京へ上りました。田村麻呂は、朝廷にふたりの助命を進言しますが、公卿は「朝廷に反逆した首謀者」としてこれを却下。8月13日に、河内国椙山(かわちのくにすぎやま)(大阪府枚方(ひらかた)市)でアテルイとモレは斬首の刑に処されたといいます。
アテルイがどのような人物だったのか、それを記す資料は多くはありませんが、鹿島神宮(茨城県鹿嶋(かしま)市)にはアテルイの首像といわれる「悪路王首像」が残っています。立ち上がった太いまゆ、正面を見据える鋭い眼、固く結んだ口元は、実に統率者の威厳に満ちています。伝説の中で「悪鬼」と脚色されてしまったアテルイ。しかし、蝦夷と、この地に住む人々を守るために戦った勇敢な族長であったのでしょう。
現在、胆沢城跡近くには奥州市埋蔵文化財調査センターが設立され、胆沢城やアテルイに関する展示を行っています。北上川流域に広がる緑豊かな田園風景。1200年前にこの地を攻め、そして守った、それぞれの英雄像を思い描いてみるのもおもしろい。
胆沢城跡にその痕跡を見ることはできませんが、跡地からはさまざまな遺物が出土しています。アテルイの本拠地だった巣伏村地域にある巣伏(すぶせ)古戦場跡には、現在やぐらが再現されています。また、アテルイが処刑された枚方市の牧野公園には、2007年3月、アテルイとモレの慰霊碑が建立されました。
東北地方の伝説:飯田事件のせつが処刑された七北田刑場跡(宮城県仙台市)
不義密通・主人殺し、飯田事件の罪で処刑された「せつ」が供養される七北田刑場をご存知ですか?仙台駅から地下鉄に乗り北に向かって8駅目、仙台市泉区の八乙女駅からほど近い場所に、仙台藩の七北田(ななきた)刑場跡があります。1690(元禄3)年に米ヶ袋刑場から移され、明治初年まで5000人以上もの罪人がここで処刑されたといいます。
そのひとりが、飯田能登道親(はんだのとみちたか)の妻せつ。飯田家の側用人と恋仲になったせつは、ふたりで道親を殺害し逃亡しました。これが1752(宝暦2)年4月7日のこと。しかし釜石に潜伏しているところを捕まり、仙台へと護送。4カ月間の投獄の末、不義密通と主殺しの罪によって同年11月3日に処刑されました。有名な「飯田事件」です。せつの十七回忌には、その供養のため「於節(おせつ)地蔵尊」が建てられ、小さな供養塔は今も刑場跡に残ります。
また、長崎でオランダ医学を学んだ仙台藩医・木村寿禎(きむらじゅてい)が、ここで刑死人の解剖( 腑分(ふわけ))を行い、腑分供養碑が建てられていたといいます(現在は佛眼寺境内にある)。
1746(延享3)年、仙台藩5代藩主・伊達吉村公の夫人長松院(ちょうしょういん)の遺言により、藩は刑場の南北それぞれ100mの地に「河南堂(かなんどう)」「河北堂(かほくどう)」という常念仏堂を建て、受刑者の霊を弔いました。現在は、河南堂に掲げてあった「抜苦(ばっく)」の額のみが、泉区の古刹、山の寺洞雲寺(どううんじ)に保存されています。
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