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九鬼嘉隆は志摩国波切城で生まれた
九鬼氏は、室町時代より熊野海賊の一員として紀州九鬼浦(現尾鷲市(おわせし)九鬼町)で活動した一族です。海賊は、現在のイメージとは違い、海上の船舶を安全に誘導する水先案内人や物資を運ぶ廻船をしたり、大名の軍隊である水軍に属していた人たちを指します。九鬼氏は勢力拡大を狙って、志摩国波切城(なきりじょう)へ移ります。現在の大王崎(だいおうざき)であり、自然の地形を利用した要塞です。九鬼嘉隆は、そこで生まれました。
九鬼嘉隆とはどのような人物なのか?
戦国時代、九鬼氏は志摩から紀伊にかけて複数いた海賊衆をまとめました。当主の九鬼嘉隆は、伊勢国司の北畠氏に仕えていましたが、北畠氏が信長に屈服したことを機に、信長の海戦部隊となりました。
九鬼嘉隆の功績と鉄甲舟の謎
1574年、信長が攻略に苦心していた長島の一向一揆を攻撃して制圧。これを皮切りに、次々と戦果をあげていきました。
1576年、毛利村上水軍との戦いとなった木津川口(きづがわぐち)の戦いが起こります。このとき、信長の指示により、九鬼嘉隆は鉄甲船を造りました。鉄砲が通らない、炎上しない船で、詳細は不明ですが、限られた箇所に鉄の装甲がなされたとみられます。信長が大金をつぎ込み、九鬼水軍は強大になっていきました。
信長に抵抗した長島の一向一揆
木曽三川に囲まれた長島は、信長の天下統一に反抗していました。当時、長島には大坂の石山本願寺の末寺である願証寺(がんしょうじ)があり、長島の城主を追い出して一向宗門徒による自治を行っていました。信長の攻撃を2回退けたのち、3回目の攻撃で、九鬼水軍を中心とした数百隻を含めた大軍に襲われました。砦から脱出した男女1000人あまりが斬り殺され、砦に残った2万人あまりは焼き殺されたといいます。
九鬼嘉隆は時の将軍に重用されるも関ヶ原の乱で敗戦し自害
九鬼氏は船を操る技術だけでなく、造船技術もあったため重用され、信長の死後は秀吉に仕えることとなり、志摩3万5000石を与えられました。1592年から始まった秀吉の朝鮮出兵で、九鬼嘉隆は水軍総大将に任命され、大型の戦艦に日本で初めて日の丸の旗を掲げた、日本丸を率いました。
関ヶ原の戦いが起こると、九鬼嘉隆は石田三成側(西軍)について敗戦。徳川家康側(東軍)についていた息子の九鬼守隆(もりたか)が、決死の助命願いをして許されます。ところが、それを知らない九鬼嘉隆は、逃げた先の答志島(とうしじま)で切腹。九鬼嘉隆は、「鳥羽城が見えるところに埋めてくれ」と言い残し、首は鳥羽城を一望できる築上山(つかげやま)に埋葬されました。九鬼嘉隆の胴を葬ったとされる墓は、和具漁港の町中にあり、近くには切腹した場所とされる洞仙庵(とうせんあん)(廃寺)跡の石碑があります。その後、九鬼守隆が当主となりました。
九鬼嘉隆の息子・守隆の死後、跡目争いののち九鬼水軍は消滅
1632年、九鬼守隆が亡くなると、跡目争いが勃発。志摩の地を取り上げられ、2つの九鬼家に分裂したまま三田(さんだ)(現兵庫県)と、綾部(あやべ)(現京都府)に移されました。海がない土地だったため、ここで九鬼水軍は終わりを迎えました。
なお、鳥羽は戦国時代まで泊(とまり)と呼ばれ、京都の醍醐寺領の港町として発展しています。鳥羽の名の由来は、「泊場」と呼ばれていたからではないか、という説があります。
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