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吉田松陰は勅許を得ずの日米修好通商条約調印に激怒し間部詮勝要撃を計画
当時の日本は、鎖国を続けるか開国するかで揺れ動いていました。幕府はこれ以上鎖国を続けることはできないと考え、開国の構え。しかし鎖国の伝統を変えたくない朝廷は、開国を拒みます。吉田松陰自身は外国への関心が強く、学んで国力を高めるべきだと考えていましたが、海外の圧力に屈する形で開国することに不安を抱いていました。
そんなとき大老・井伊直弼(いいなおすけ)が天皇の勅許なしに日米修好通商条約を調印したことを知った吉田松陰は激怒し、老中・間部詮勝要撃(まなべあきかつようげき)(暗殺)を計画。あろうことか長州藩に計画を宣言し、武器弾薬の拝借を願い出たのでした。当然ながら長州藩はこれを拒否。吉田松陰の暴走を止めるべく、再び野山獄に投獄しました。
吉田松陰の死罪により松下村塾門下生に生まれた「幕府許すまじ」
井伊直弼は、幕府を批判した尊王攘夷志士の大弾圧に乗り出します。安政の大獄の始まりです。吉田松陰も幕府の取り調べを受けることになったのですが、幕府は吉田松陰がそこまで重要な人物だと考えていませんでした。
安政の大獄ですでに捕縛されていた梅田雲浜(うめだうんぴん)の動向を探るため、彼と交遊があったと思われる吉田松陰に事情を聞く程度だったのですが、この尋問中、吉田松陰は自ら間部詮勝暗殺計画を幕府に告白。当初は流罪の予定でしたが井伊直弼が死罪を主張し、伝馬町(てんまちょう)屋敷で斬首されました。これにより松下村塾門下生の中に「幕府許すまじ」という信念が刻まれました。
吉田松陰亡き後、長州藩は攘夷実行し西洋4か国と開戦
長州藩内の思想も一枚岩だったわけではありません。藩内では常に「幕府に恭順する」「幕府に逆らう」「攘夷を決行する」「開国やむなし」という議論がわき上がっていました。
海外に比べると日本の技術が劣っているのは事実です。長州藩は1863(文久3)年5月、海外の技術を学ばせるため密命で藩士5人(井上馨(いのうえかおる)、遠藤謹助(えんどうきんすけ)、山尾庸三(やまおようぞう)、伊藤博文、井上勝(いのうえまさる))をイギリスに密航留学させます。開国した際に少しでも有利になるよう、準備は進めていたのでした。
その一方で、攘夷も実行しています。幕府が朝廷に攘夷決行日と約束した同年5月10日、久坂玄瑞らが関門(かんもん)海峡を通行するアメリカ商船を砲撃したのです。藩上層部は攘夷には慎重な立場でしたが、やってしまったものは仕方がありません。長州藩は報復攻撃されることを見越して、臨戦態勢に入ります。
まず藩庁を艦砲射撃に弱い萩から内陸の山口に移転。支藩の長府(ちょうふ)藩も、海岸線から内陸部の勝山に藩主居館を移転しました。軍備増強のため、関門海峡周辺に10以上の台場(砲台)を建設。小郡(おごおり)(現在の山口市)や萩の大砲製造所では、洋式の大型カノン砲を鋳造しました。
井上馨・伊藤博文は開戦を止めるためイギリスから急ぎ日本に帰国しますが結局止めることはできず、1864(元治元)年8月5日には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国・17隻の連合艦隊が関門海峡に襲来。長州藩兵は果敢に攻撃するも、圧倒的な火力差を前に台場は次々に陥落しました。
7月19日に発生した禁門(きんもん)の変(へん)で主力の大半が不在だったこともありますが、そもそも勝てる戦争ではありません。一度開戦し長州藩、ひいては日本の姿勢を見せつけようという「負けは覚悟の開戦」だったのでした。
長州藩は諸外国に敗北、禁門の変での敗北で幕府恭順が優位になる
講和条約の際、連合国側は「関門海峡の自由通行」「薪炭の供与」「悪天候時の寄港と船員の上陸許可」を求めます。これについては、長州藩も異論はなくすんなり認めています。
しかし賠償金300万ドルの支払いについては「幕府の命令で攘夷を行っただけなので、賠償責任は攘夷を命じた幕府にある」とつっぱねたのでした。これ以上国際問題を大きくしたくない幕府は、しぶしぶこの請求に応じています。
諸外国と戦って敗北したこと、禁門の変で敗北して朝敵になったことにより藩の論調は、幕府恭順が優位となりました。第一次長州征伐の際、椋梨藤太(むくなしとうた)らは恭順を主張。家老が切腹し幕府に謝罪文を提出することで、直接戦闘は回避されました。
表面上は「武備恭順」を装うも裏で「抗幕」を統一し薩長同盟を締結
高杉晋作はこの対応に納得できず、「正義派」と名乗って1864(元治元)年12月に功山寺(こうざんじ)で決起。1865(慶応元)年1月、藩内戦が勃発し、2月に諸隊が勝利します。椋梨派(俗論派)を退け藩論を「抗幕」に統一。これ以降長州藩は、戦争の準備をしつつ表面上幕府に従う「武備恭順」の姿勢をとり、藩内を改革していきました。
政治面は桂小五郎(後の木戸孝允(きどたかよし))が、軍事面は大村益次郎(おおむらますじろう)が担当。薩摩藩(鹿児島県)から最新鋭の武器を手に入れていました。1866(慶応2)年1月には薩長同盟を締結し、高杉晋作はイギリス商人トーマス・グラバーより軍艦・丙寅丸(へいいんまる)を購入。藩内の士気も高まっていきました。
第二次長州征伐による「四境戦争」勃発!長州藩はこれを退け薩摩藩とともに大政奉還へ
同年6月、幕府は第二次長州征伐に乗り出します。長州藩を攻撃するために西国を中心とした31藩に出陣を命じたのですが、各藩はなかなか応じようとしませんでした。この時期、どこの藩も財政的に厳しく出兵は経済的負担が大きかったのです。長州藩が恭順の態度を見せていたことも影響していたのでしょう。本来であれば「萩口(はぎくち)」「芸州口(げいしゅうぐち)」「大島口(おおしまぐち)」「小倉口(こくらぐち)」「石州口(せきしゅうぐち)」の5方面から長州藩を攻撃する予定だったのですが、萩口を担当するはずだった薩摩藩が動かなかったため、結果的に長州藩に4方面から侵攻する「四境戦争」となりました。
最初に戦端が開かれたのが、大島口の戦いです。周防大島(すおうおおしま)にはもともと兵を配置していなかったため幕府軍に占領されてしまいますが、高杉晋作が丙寅丸を率いて幕府側の軍艦に夜襲をしかけます。翌日には上陸して周防大島を奪還しました。
次に戦場となったのは、芸州口です。芸州口では彦根藩(滋賀県)・紀伊藩(和歌山県)など3万の軍勢と、岩国兵が激突。こう着状態のまま終戦となりました。
3番目の戦場となった石州口では、長州藩の大村益次郎率いる部隊が浜田藩(島根県)に侵攻。射程の長い最新式の銃で浜田藩・福山藩(広島県)を圧倒し、浜田城を陥落させました。
最も激戦となったのが、石州口の戦いとほぼ同時に始まった小倉口の戦いです。高杉晋作の乗る丙寅丸と、坂本龍馬の乗る乙丑丸(いっちゅうまる)(薩摩藩名義で長州藩が購入し、亀山社中(かめやましゃちゅう)が操船)が門司(現在の福岡県北九州市)を攻撃。その混乱に乗じて奇兵隊が門司に上陸して、待ち構えていた小倉藩(福岡県)や熊本藩の兵と交戦しました。その後幕府側の猛攻を受け一度は下関側に退きますが、再上陸。このままでは防ぎきれないと判断した小倉藩は自ら城に火を放ち、小倉城は落城しました。
その後も各方面で戦闘は続きますが、7月に14代将軍・徳川家茂(いえもち)が大坂城で急死したことを契機に撤兵。体面上は休戦という形ではありましたが、長州藩の勝利は疑う余地もなく、幕府の権威は失墜しました。
長州藩は薩摩藩とともに現代日本の基礎を築いて行く
長州藩躍進の立役者だった高杉晋作は、1867(慶応3)年4月に下関で病没。長州藩は明治維新を迎える前に多くの藩士を失いますが、大政奉還後は薩摩藩とともに新政府を牽引し、現代日本の基礎を築きました。
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・海上アルプスとも呼ばれる青海島の岩石造形
・3本の川による河川争奪の結末
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・私道では日本一の長さ! 約32kmの宇部興産専用道路
・土木学会デザイン賞を受賞 絶景と調和した角島大橋
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Part.4 山口で生まれた産業や文化
・日本海側で夏みかん栽培? 廃藩後の萩経済を支えた主役
・全国からふぐが集まる下関
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・セメント町に硫酸町…地名に残る小野田の産業
・本州最西端の山口が工業県に発展したわけ
・伝統を今に伝える「錦帯橋のう飼」
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