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大内義隆は月山富田城の戦いで大敗するも軍を立て直し歴代最大勢力に

1542(天文11)年、大内軍は尼子氏を攻略するために出雲に出陣しました。文治派の相良武任(さがらたけとう)が寝返り工作を展開しつつ、赤穴城(あかなじょう)を攻撃。尼子氏に従っていた国衆を寝返らせることで、大内軍は勝利を治めました。
しかし続く月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いでは大苦戦を強いられます。攻城の成果は上がらず、一旦大内側に寝返った国衆が再び尼子側に寝返る事態まで発生。大内義隆は撤退を余儀なくされ、海路から敗走しました。この撤退の途中で、後継者予定だった大内晴持(はるもち)が死亡。陸路撤退した軍も尼子軍から追撃され、大きな打撃を受けます。

『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』には「大内義隆は月山富田城の敗戦で軍事面へ興味を失い、文化に傾倒した」とありますが、山口に戻った大内義隆はすぐに各地へ軍を派遣し、石見(いわみ)と安芸(あき)の守りを固めています。その後は大内水軍に村上海賊衆を攻撃させ、芸予(げいよ)諸島を支配。この結果大内氏の勢力範囲は歴代最大となりました。1548(天文17)年には朝廷から、武家としては破格の高位である従二位(じゅにい)を賜るなど、軍事的にも政治的にも精力的に活動しています。

大内義隆はこの敗戦で軍事面へ興味を失い武功派と対立

しかしこのころから、大内氏の家中に亀裂が入り始めます。月山富田城の戦いで敗戦して以降、大内義隆本人が出陣しないことに対して、内政的だと危機感を持つ家臣が増えてきたのです。しかも大内義隆は文治派である相良武任を重用。隆房を筆頭とする武功派との対立も深まっていきました。隆房は何度も大内義隆に進言しますが状況は変わらず、隠居を提案するも聞き入れてもらえませんでした。

ついに隆房は、大内義隆を討つ決意を固めるのです。謀反にあたって協力を求めたのが、安芸国人領主連合の盟主・毛利元就(もうりもとなり)です。謀反決行のちょうど1年前に当たる1550(天文19)年8月、隆房は毛利元就父子に「2人の重臣と相談し、大内義隆を廃して義隆の子を擁立することに合意した。このことを毛利から他の国人領主に伝えてほしい」という手紙を送ります。当時の毛利氏は大内氏に従っていましたが、陰で隆房の謀反に協力していたのです。

このころになると大内の家中でも「隆房が謀反を企てているのではないか」という噂が出始めます。隆房の謀反計画を告発し「今のうちに、隆房を討つべきだ」と進言した家臣もいましたが、大内義隆は「隆房がそんなことをするはずがない」と全く聞き入れませんでした。

大内義隆は陶隆房(陶晴賢)に追い詰められ自害

1551(天文20)年8月20日、隆房が厳島(いつくしま)と桜尾城(さくらおじょう)を接収。毛利軍も佐東銀山城(さとうかなやまじょう)など安芸国内の大内氏の城を奪い、隆房の動きに呼応しました。隆房の動きが怪しいと耳にしてもなお、大内義隆は動こうとしませんでした。それほど、隆房のことを信頼していたのかもしれません。

8月28日に隆房が山口に侵攻してきたのを聞いた大内義隆は、ついに大内御殿を出て法泉寺(ほうせんじ)(現在の山口県庁の裏手付近)に退却。従う武将は、ほとんどいなかったといいます。翌日、山口を放棄した大内義隆は長門仙崎(ながとせんざき)へ逃亡。海路で石見に逃げようとしますが風や雨に阻まれて叶わず、長門深川(ふかがわ)の大寧寺(だいねいじ)で自害しました。

挙兵からわずか3日(この年は8月が29日までしかなかった)で、大内義隆を自害に追い込みます。

大内義隆の甥を当主とするも数年後に晴賢、大内家ともに滅亡

隆房の目的は、当主を変えて大内氏を再興することです。大内義隆の死後は九州の大友晴英(おおともはるひで)(義隆の姉の子で、後の大内義長)を迎え、家督を継がせています。「陶氏の当主は主君から一文字拝領する」という習わしに従い、隆房は晴賢と名を改めました

謀反から4年後、晴賢は厳島合戦で毛利軍に滅ぼされます。義長は山口に侵攻してきた毛利軍に攻められ、1557(弘治3)年4月3日に長福寺(現在の功山寺(こうざんじ))で自害しました。こうして、西日本最大の戦国大名とうたわれた大内氏は滅亡。北部九州(豊前国、筑前国)などは大友氏が、その所領の多くは毛利氏が治めることとなります。

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Part.1 地図で読み解く山口の大地

・日本最大規模のカルスト台地 秋吉台の誕生をひもとく!
・秋芳洞はどうやってできた?
・ストライプの地層とマグマが生んだ須佐ホルンフェルス
・岩の柱が林立! 玄武岩でできた俵島
・海上アルプスとも呼ばれる青海島の岩石造形
・3本の川による河川争奪の結末
・昔は陸続き!? 関門海峡誕生の秘密
・3つのマグマの胎動が鍵を握る萩と阿武の大地
・長門峡の成り立ちに迫る
・大畠瀬戸に渦潮が生まれる理由

…など

Part.2 山口を駆ける充実の交通網

・関門をつなぐ世紀の大事業は世界初の海底トンネルだった
・SL「やまぐち」号の勇姿/路線跡地を活用した遊覧車 一度は乗りたい! とことこトレイン
・山陽鉄道の建設を拒否した県都・山口の苦い歴史
・私道では日本一の長さ! 約32kmの宇部興産専用道路
・土木学会デザイン賞を受賞 絶景と調和した角島大橋
・藩主や維新志士も行き来した山陰と山陽を結ぶ萩往還
・下関と釜山を結ぶ航路は2国を結ぶ友好の懸け橋

…など

Part.3 山口で動いた歴史の瞬間

・周防鋳銭司は古代日本有数の造幣局だった!
・道真公が無実を願った場所に建立 日本初の天神さま
・平家一門最期の地・壇ノ浦
・西国の覇者が築いた「西の京 やまぐち」の基礎
・お家のために御屋形様を討つ! 陶隆房は逆臣だったのか?
・経済政策と人材育成で財政難を乗り切り雄藩に成長
・先人の情熱が生んだ錦帯橋
・奇数代藩主と偶数代藩主で菩提寺が違うのはなぜ?
・「巌流島の決闘」の真相とは

…など

Part.4 山口で生まれた産業や文化

・日本海側で夏みかん栽培? 廃藩後の萩経済を支えた主役
・全国からふぐが集まる下関
・近代捕鯨発祥の地・下関でおいしいくじら料理を食べる
・セメント町に硫酸町…地名に残る小野田の産業
・本州最西端の山口が工業県に発展したわけ
・伝統を今に伝える「錦帯橋のう飼」
・茶人に愛される萩焼の今昔とその魅力
・有楽町、原宿、代々木公園。周南市になぜ東京の地名が?
・萩市の世界産業遺産が語る長州藩のチャレンジ精神

…など

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