更新日: 2024年9月4日
大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)に討たれたのはなぜ?戦国時代の山口で発生した謀反の経緯
本能寺の変より30余年前、山口でも謀反が発生しました。討たれたのは大内義隆(おおうちよしたか)、討ったのは大内義隆に重用されていた陶隆房(すえたかふさ)(後の陶晴賢(はるかた))です。
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大内義隆の一文字を拝領して「陶隆房(後の陶晴賢)」
陶氏はもともと大内氏の分家筋で、代々大内氏に仕えてきました。陶氏の当主は「主君である大内氏当主より一文字拝領する」という習わしがあり、陶隆房も元服の際に当主・大内義隆から「隆」の文字を拝領しています。1539(天文8)年には、19歳で家督を相続。武功派の隆房は領土拡大を目指す大内義隆に重用され、1540(天文9)年の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の戦いでは尼子(あまご)軍を撃退する活躍を見せました。
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