目次
平家滅亡までの動き:源氏の内紛に乗じて福原を奪還
ちょうどそのころ都では、後白河法皇と木曽義仲の関係が悪化していました。後白河法皇は早々に木曽義仲に見切りをつけ、源頼朝に接近。1183(寿永2)年の11月ごろには、同じ源氏同士である木曽義仲VS源頼朝の図式ができあがっていました。
平家はこの機に乗じて一気に都を目指します。源義経率いる軍勢が木曽義仲討伐に奮闘していた1184(寿永3)年1月8日に、平家の主力部隊が福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区)を奪還。1月26日には平家一門が屋島から福原に上陸しました。福原と京の都は、目と鼻の先。鎌倉からの長距離遠征や木曽義仲軍の討伐で疲弊している源氏軍を破り、上洛は間近かと思われました。
平家滅亡までの動き:福原で源氏軍に攻められ再び屋島へ
1184(寿永3)年2月6日、福原に拠点を移した平家のもとに後白河法皇から、和議の申し入れがありました。しかしこれは後白河法皇の罠で、このときすでに源氏軍は福原の目前である一ノ谷(現在の兵庫県神戸市須磨区)に迫っていました。
2月7日、大手(おおて)軍(正面から攻める軍)の源範頼(のりより)は福原東の生田(いくた)の森から、搦手(からめて)軍(敵陣を背後から攻撃する軍)の源義経は福原西の三草山(みくさやま)から、地元豪族である多田行綱(ただゆきつな)は福原北の鵯越(ひよどりごえ)から一斉攻撃。三方向から攻められた平家は、海に逃げるしかありませんでした。
福原を奪われた平家は、屋島へ落ち延びます。安徳天皇と三種の神器を有する平家一門の勢力は、まだ衰えていませんでした。しかし平家の上洛を阻止した源氏軍が、京都での勢力を拡大。平家の上洛は、難しくなっていきました。そこで平知盛(とももり)は屋島へ向かう一門と別れ、都落ち後に平家一門が移動したルート1183(寿永2)年7月25日に都落ちしてから半年足らずで勢力を盛り返し、再上洛可能な福原に拠点を構えていました。長門国の彦島(ひこしま)へ向かいます。彦島に築いた拠点を足掛かりに、平家に味方する九州勢をまとめようとしたのかもしれません。
平家滅亡までの動き:源氏軍の平家追討軍による西国攻略
平家をさらに追いつめるため、源頼朝は源範頼と東国武士団による平家追討軍を編成しました。北条義時(ほうじょうよしとき)・比企能員(ひきよしかず)・和田義盛(わだよしもり)ら、後の鎌倉幕府の中枢を担うメンバーを従えた主力部隊は、1184(元暦元)年8月8日に鎌倉を出立。山陽道を進軍しながら、平家の拠点だった西国を次々と攻略していきました。10月始めには周防国(すおうのくに)まで進軍しますが、長門国で平家軍の激しい抵抗に遭います。長門国の攻略を中断した範頼軍は九州に渡り、平家勢力の強かった筑前(ちくぜん)・宇佐(うさ)・大宰府を手中に収めます。
平家の拠点であった屋島を制圧した源義経
主力部隊として源範頼が山陽と九州の討伐を任される中、源義経は四国の制圧を担当することとなります。1185(元暦2)年2月17日、源義経は阿波国勝浦に上陸して田口成良の本拠地である阿波国を制圧。そのまま屋島に攻め込みました。
阿波国を制圧され、拠点である屋島を焼かれた平家は、再び海に逃げます。屋島の戦いに敗れたことによって、平家一門の命運は尽きたといえるでしょう。山陽道沿いの諸国は源氏軍に制圧されており、拠点だった九州も源範頼軍に攻め込まれていました。加えて源義経に四国を抑えられたため、瀬戸内の制海権も喪失。平家一門の行き場は平知盛のいる彦島しかなく、次の合戦で勝利して勢力を盛り返すしか生き残る道はなくなったのです。
平家滅亡までの動き:壇ノ浦の戦い
平家を屋島から追い落とし四国水軍を味方に付けた源義経は、そのまま進軍を続け、舟団を満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)に集結させます。満珠・干珠は長門国府(現在の下関市長府)沖に浮かぶ小島で、彦島とは10数kmしか離れていません。平家一門は源氏軍を迎え撃つため、彦島を出て田野浦(たのうら)(現在の福岡県北九州市門も司じ区く)に集結しました。こうして、平家物語などで知られる「壇ノ浦の合戦」が始まるのです。
『平家物語』などによると源氏軍が3000以上の船団だったのに対し、平家の船団は500~1000程度。実数は不明ですが、源氏軍の兵力は平家軍を圧倒していたと見て間違いないでしょう。
平家滅亡となった壇ノ浦の戦いの敗因とは?
時代小説やドラマなどでは、「潮流が合戦の行方を変えた」という説が採用されることが多くあります。「午前中は潮流が平家に有利に働いていましたが、午後になって潮流が変わって源氏有利となり、それが決め手となって平家が敗れた」というストーリーです。しかし合戦が行われたとされる田野浦と満珠・干珠の間は、比較的海峡の幅が広いのです。多少は潮流の影響も受けるでしょうが、それが決定打になったとは考えにくいでしょう。
加えて関門海峡の潮流が東向きに強くなるのは、10~13時ごろです。合戦の様子を記した一次史料はほとんど存在していませんが、『玉葉(ぎょくよう)』に記された源義経の戦勝報告には、「1185(元暦2)年3月24日の昼頃、長門国の団(だん)(壇ノ浦)で合戦があった。正午から夕方まで合戦があり、多くの者を討ち取り、生け捕った」とあります。正午に戦闘が開始したのであれば、戦が始まって1時間程度で潮流は源氏優位になります。潮流に乗って攻め込むなら、舟戦に慣れている平家軍が午前中に打って出ていたのではないでしょうか。
近年では圧倒的な兵力差や、寝返りによって平家の計略が源氏軍に見抜かれていたことなど、複合的な要因で勝負が決まったと考えられています。『平家物語』では、平知盛や平教経(のりつね)が平家の有能な指揮官として描かれていますが、実際の知盛は病気がちだったとされ、合戦で目立った活躍をしているわけではありません。また勇猛な武将として描かれることの多い平教経は一ノ谷で討たれたという説もあり、有能な指揮官がいなかったことも平家の敗因の一つといえるでしょう。
平家滅亡とともに海に沈んだ安徳天皇と三種の神器
源義経の戦勝報告によると壇ノ浦の合戦は数時間で終了しており、夕方ごろには平家の人々が入水したと見られています。この入水した人々の中には、安徳天皇も含まれています。二位尼の辞世が「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ波の下にも みやこありとは」だったため、御裳川(みもすそかわ)(現在のみもすそ川公園)周辺で入水したのではないかといわれていますが、詳細は分かりません。
平家一門とはいえ安徳天皇は、三種の神器を有して即位した正式な天皇です。例え捕らわれても処刑されることはなかったでしょうが、後白河法皇が生きている限り、平家の血を引く安徳天皇は冷遇されます。一ノ谷で裏切られ、疑心暗鬼になっていた面もあったのでしょう。最終的に安徳天皇と三種の神器は、壇ノ浦に沈みます。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)は後に浮き上がってきたところを回収されましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は失われてしまいます。青銅の剣なので朽ちてしまっているでしょうが、もしかしたら壇ノ浦のどこかに、今も沈んでいるかもしれません。
赤間神宮の祭神は安徳天皇
下関市には「平家びいき」の風潮があり、市内にはさまざまな「平家ゆかりの地」が残されています。その代表格ともいえるのが、壇ノ浦の合戦で入水した安徳天皇を祭る赤間神宮(あかまじんぐう)です。かつては阿弥陀寺(あみだじ)と呼ばれる寺院でしたが、明治時代の神仏分離によって神社となり赤間神宮に改称。毎年5月2~4日は先帝祭(せんていさい)が執り行われており、境内には壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門の供養塔があります。
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・平家一門最期の地・壇ノ浦
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・お家のために御屋形様を討つ! 陶隆房は逆臣だったのか?
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