更新日: 2024年1月13日
平家滅亡はいかにして起こったか?西海に追いつめられ平家一門の最期の地となった「壇ノ浦」
日宋(にっそう)貿易で財を成し平清盛が太政大臣(だじょうだいじん)になるなど栄華を極めた平家一門でしたが、清盛の死後程なく滅亡しました。平家は、なぜ滅びなければならなかったのでしょうか。
目次
平家滅亡までの動き:発端となった以仁王の挙兵と木曽義仲の挙兵
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…。有名な、『平家物語』の冒頭です。平清盛が築き上げた平家一門の繁栄に陰りが差し始めたのが、1180(治承4)年4月に発生した以仁王(もちひとおう)(後白河法皇の第三皇子)の挙兵です。以仁王の挙兵自体は早々に鎮圧されたのですが、各地で決起した源氏軍は衰えませんでした。特に素早かったのが、信濃国木曽(しなののくにきそ)で挙兵した木曽義仲です。木曽義仲は平家軍を打ち破り北陸から京都に迫ります。1183(寿永2)年7月25日、平家一門は木曽義仲に追い出される形で、京都を離れることとなりました。
平家は各地で入国を拒否され行きついた四国で木曽義仲を撃破
拠点を失った平家は大宰府(だざいふ)に入りますが、九州で反乱が発生し大宰府を追われてしまいます。その後長門国(ながとのくに)を目指しますが長門の豪族に拒否されたため、四国の武将・田口成良(たぐちしげよし)を頼って四国に入りました。
もちろん田口成良も、己の事情があって平家に味方しています。田口成良は阿波国(あわのくに)の豪族で、同じく阿波国の豪族である近藤氏と対立していました。対立相手の近藤氏が反平家方だったため、対抗手段として田口成良は平家に味方。都落ちして約2カ月後の閏10月1日、平家軍は備中国水島(びっちゅうのくにみずしま)で木曽義仲軍を撃破(水島の戦い)。この勝利によって、四国の豪族や水軍は平家になびきます。味方を増やし瀬戸内海の制海権を強めた平家は、屋島(やしま)(現在の香川県高松市)を拠点に勢力を回復させていきます。
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