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太平洋戦争の被害:10・10空襲(沖縄県)
太平洋戦争に突入し、沖縄は前線基地の役割を担わされていきます。
1944(昭和19)年7月にサイパン島が陥落すると、連合国軍の次の攻略目標は沖縄になることが予想されました。日本は第32軍を沖縄に配備し、沖縄島民10万人を疎開させる計画を立てましたが、同年8月22日には学童疎開の児童約800人を含む約1700人を乗せた対つしま馬丸が撃沈され、疎開の足は滞りました。
10月10日には南西諸島全域を対象とした大規模な空襲(十・十空襲)に見舞われ、那覇市は市街地の90%以上が焼失。旧日本軍も壊滅的な痛手を負い、沖縄島民たちは戦場に駆り出され、1945(昭和20)年3月以降、10代の生徒たちも男子は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)、女子はひめゆり学徒隊など看護要員として戦場に動員されることとなりました。
1945(昭和20)年3月26日、アメリカ艦隊は慶良間諸島に集結し、29日には占領した。そして4月1日から米軍55万の将兵が、沖縄島の読谷から艦砲射撃と空襲を交えた上陸戦を展開しました。
太平洋戦争の被害:鹿児島空襲(鹿児島県)
日本は1945(昭和20)年1月20日に帝国陸海軍作戦計画大綱を策定し、本土防衛を目的とした軍の再編に着手。本土防衛の最前線である沖縄を守るため、爆弾を搭載した航空機による敵艦船への体当たり攻撃を任務とする部隊を編成します。いわゆる「神風特別攻撃隊」です。以降、鹿児島県内の飛行場は特攻基地となっていきました。
特攻基地は鹿児島県内にしかなかったので、鹿児島への空襲は激しいものでした。
1945(昭和20) 年3月18日から8月6日まで合計8回の空襲が行われ、死者は3329名、負傷者4633名、罹災人口は11万5385名にのぼりました。なかでも6月17日と7月27日の空襲は苛烈を極め、この両日だけで2736名が亡くなっています。
全市が焼け野原となり、障害物がなくなって遠くまで見通せたので、西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)から海が見えたといわれます。
太平洋戦争の被害:熊本空襲(熊本県)
熊本城は第二次世界大戦終了まで旧・日本陸軍第六師団の中心的拠点で、その周辺には軍関連施設が数多く存在し続けました。そのため、第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年11月21日以降には熊本は数回におよぶ米軍の空襲を受けることとなります。
第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年11月21日以降には熊本は数回におよぶ米軍の空襲がありました。特に1945(昭和20)年7月1日〜2日の空襲では、市街地の約20%が焼失、被害は、死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数1万1000戸、罹災者数43万3000人に達するという被害を出しました。
戦後、米軍は熊本城郭を接収、解除されたのは、1956(昭和31)年のことでした。
熊本城
- 住所
- 熊本県熊本市中央区本丸1-1
- 交通
- JR熊本駅から市電A系統健軍町行きで17分、熊本城・市役所前下車、徒歩10分
- 料金
- 入園料=大人800円、小・中学生300円/(30名以上の団体は大人640円、小・中学生240円、熊本市・福岡市・北九州市・鹿児島市在住の小・中学生及び65歳以上無料、障がい者手帳持参で無料)
太平洋戦争の被害:千葉空襲と銚子空襲(千葉県)
戦時中の千葉県では県内各地に軍事施設がつくられ、「軍都」と呼ばれるようになりました。
軍需工場は千葉県内の雇用を増やしたものの、アメリカ軍による戦略爆撃の標的とされ、県内の軍事施設は軒並み空襲被害を受けることになってしまいます。とくに被害が甚大だったのは千葉空襲(1945年6月10日・7月7日)と銚子空襲(同7月19日)で、いずれも1000人以上の死傷者を出しています。
太平洋戦争の被害:仙台空襲(宮城県)
仙台には明治時代から陸軍歩兵師団が置かれ、前線へ将兵が送られました。
軍関連施設が多かったため、仙台は軍都でもあったのです。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月9日~10日にかけて、大規模な空襲に見舞われました。仙台空襲です。
総務省の調査によると、米軍報告書では123機のB29が飛来。仙台の上空3000mから爆撃を行い、1万2961発の焼夷弾などを投下しました。米軍によると、市街地の27%、鉄道操車場の40%、軍事施設の80%、陸軍建造物の50%を破壊したと評価しています。
仙台市役所防衛課の調べによると、被災した戸数は1万1933戸、被災人口は5万7321人で、1000人を超える死者が出たといわれます。
太平洋戦争の被害:青森空襲(青森県)
昭和20(1945)年には青森県域への空襲も本格化し、7月14日から翌15日にかけては八戸飛行場や三沢の海軍施設、さらには青森の港湾施設が重点的に爆撃されました。
7月28日夜には、秋田県の男鹿半島を北上したB-29爆撃機の編隊が青森市上空に襲来し、1時間11分にわたって焼夷弾による空爆を行いました。この青森空襲による死傷者は1767名にのぼり、市街地の約88%が焼け野原と化しました。北海道産の石炭は青森港で陸揚げされて本州の各地へ輸送されていたため、青函航路を断つことが目的だったようです。
太平洋戦争の被害:長岡空襲(新潟県)
戦時下の新潟は、日満航路の重要港であり、石油精製をはじめとする工業地帯であり、さらに海軍航空基地を有する日本海側における重要都市でした。
新潟への空襲は1945(昭和20)年4月13日を皮切りに、敗戦までの4カ月間に合計24回行われました。もっとも被害が大きかったのは8月1日の長岡空襲で、1万1986戸が罹災して死者は1488人にのぼり、長岡市街のおよそ8割が焼失しました。
新潟市に対しては、新潟港封鎖を目的とした機雷投下が大半を占めました。市街部への大規模な空襲がなかったのは、新潟市は原爆投下の標的とされていたからです。広島、長崎へ原爆が投下されたあとの8月10日、新潟では全市民に対して強制疎開を命じます。その5日後に日本はポツダム宣言を受諾して終戦を迎えますが、このとき新潟市街にはまったく人影がなかったと伝えられています。
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