蝦夷地は罪人の流刑地としても利用
史実では、奥州藤原氏は義経の首を頼朝に差し出したものの、義経をかくまった咎により、1189(文治5)年に頼朝に攻め滅ぼされます(奥州合戦)。こののち、1192(建久3)年に頼朝は日本最初の武家政権を鎌倉に開きますが、奥州藤原氏が支配していた奥羽(おうう) 全域も鎌倉幕府の支配下に組み入れました。
以降、津軽海峡以北の夷嶋(えぞがしま)(北海道)は罪人の流刑地として利用されていきます。この流人の移送や監視を任されたのが安東氏でした。安東氏は津軽の十と三湊(とさみなと)(青森県五所川原市)を拠点に日本海交易を展開し、流刑地の管理を通じて北海道にも勢力を伸ばしていったのです。
和人とアイヌの交流と深まる溝
農耕を基盤とする和人(わじん)社会と狩猟採集のアイヌは生活様式が異なり、互いの生産物を交易で交換し、相互に文化的な影響を与え合っていました。こうした交流が活発化し、鎌倉時代以降の和人側の文献にアイヌに関する記述が見られるようになっていきます。
しかし、交易が盛んになると、次第に和人とアイヌのあいだに軋轢が生じることが多くなります。安東氏が道南に「三守護体制」を築いて和人の統治体制を強化すると、圧政に耐えかねたアイヌが反発し、首長コシャマイン率いるアイヌの一大蜂起へと発展するのでした。
アイヌを鎮圧して松前藩の礎を築いた蠣崎氏
コシャマインの戦いを鎮圧する際に功績のあった武田信広は、蠣崎(かきざき)氏の家督を継ぎ、次第に安東氏の被官からの脱却を図ります。アイヌと講和して道南に支配地域を広げた蠣崎氏は、織田信長(おだのぶなが)に鷹を献上して中央政権に接近。豊臣政権下では上洛して豊臣秀吉に拝謁し、秀吉に直接臣従(しんじゅう)することになったのです。
安東氏の支配から脱却した蠣崎氏は、秀吉の死後は徳川家康に臣従します。このような機を見るにびんな蠣崎氏の外交的振る舞いによって、徳川幕府の成立後、蠣崎氏は松前藩として立藩できたのです。
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『北海道のトリセツ』見どころ―目次より抜粋
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Part.2 北海道を駆け抜ける鉄道網
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Part.3 北海道で動いた歴史の瞬間
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<コラム>
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