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坂本龍馬と盟友・武市半平太との縁は剣術が結んだ
坂本龍馬の盟友である武市半平太(たけちはんぺいた)は、1829( 文政12)年吹井村(ふけいむら)(現在の高知市仁井田)に生まれます。武市家は3代前に白札(しらふだ)郷士に昇進しており、郷士でありながら上士(じょうし)に準じた待遇を受ける家柄。
武市半平太は幼いころから文武両道の人で、1854(安政元)年に城下の東側(現在の高知市菜園場町)に剣術道場を開きます。坂本龍馬と武市半平太が幼なじみだったとする説もありますが、吹井村と高知城下は浦戸湾(うらどわん)を挟んで約15km離れています。武市半平太の方が6歳年上ということもあり、実際に2人が知り合ったのは、半平太が城下に道場を開いたころではないかといわれています。
坂本龍馬は見聞を広め日本の未来を憂う
1857(安政4)年、坂本龍馬と武市半平太は藩の臨時御用のために江戸に赴きます。剣術の腕を磨きつつ見聞を広めた2人は、土佐藩だけでなく日本のこれからについて語るようになりました。当時の日本は、日本にとって極めて不利な日米修好通商条約を結んだことにより、国内の経済が大ダメージを受けていました。日本各地に幕府と外国に対する不満がたまり、幕府に代わって天皇を敬おうと訴える尊王論と、外国人排斥を訴える攘夷論が盛り上がっていました。
盟友・武市半平太の旗振りで土佐の人々を尊王攘夷派へと向かわせる
江戸留学を終えて土佐に帰国した武市半平太は、尊王攘夷運動を推進するため1861(文久元)年に土佐勤王党を結成。土佐藩全体で勤王活動(天皇のために行動を起こすこと)をすることをスローガンに、尊王攘夷運動を展開していきました。
坂本龍馬も結成とほぼ同時に、土佐勤王党に参加しています。全国的に尊王攘夷論が盛り上がりを見せていたこともあり、武市半平太の主張は土佐藩でも受け入れられました。党員の大半は郷士などの下級武士でしたが、上級武士も名を連ねています。
坂本龍馬らは活発に活動するが土佐藩の反応は鈍い
しかし土佐藩には、尊王攘夷を実行できない事情がありました。山内(やまうち)家には、徳川家に対する恩があったのです。
かつて土佐藩では13代藩主が急死し、14代藩主が就任12日で急死するという不幸に見舞われました。本来なら後継者不在を理由に取り潰されるところだったのですが幕府は土佐藩の存続を認め、分家から急遽養子に入った容堂(ようどう)の15代藩主就任を許したのでした。この恩に報いるため山内家では、「事が起きれば、徳川家に味方する」というのが不文律となっていました。幕府(徳川家)が開国すると決めた以上、山内家はそれを支援するしかありません。土佐勤王党の主張は正しく思えましたが、土佐藩を挙げて支援するわけにはいかなかったのです。
武市半平太は反応の鈍さに不満を募らせる
山内家には山内家の事情があったのですが、武市半平太は「一藩勤王が浸透しないのは、仕置役の吉田東洋(よしだとうよう)が藩主を操っているからだ」と考えました。
1853(嘉永6)年、土佐藩仕置役となった東洋は、容堂の全面的な支持のもと、「上士・下士(かし)の身分関係なく学べる藩校・文武館(ぶんぶかん)の開設」「海防の強化」「大砲の製作」「上士層の階級制度改正」の藩政改革を進めていました。ジョン万次郎を重用し、「蒸気船を購入して南の島を開拓したい」という発言を残すなど、存命であれば坂本龍馬と気が合ったかもしれません。
土佐勤王党はついに凶行に及び運動が過激化する
しかし土佐勤王党は1862(文久2)年、自分たちの活動に邪魔だった吉田東洋を暗殺してしまいます。吉田東洋暗殺後、藩の主導権は門閥派と土佐勤王党が握り、武市半平太は藩主の参勤交代に同行して尊王攘夷運動を展開しました。京都では他藩の志士と交流する一方、朝廷工作に暗躍。天誅(てんちゅう)と称した暗殺を指示しました。
過激化した運動と数々の凶行の代償
日本国内では尊王攘夷論が吹き荒れていましたが1863(文久3)年、八(はち)・一八(いちはち)の政変で尊王攘夷過激派が京都から一掃されると状況が一変。公武合体派が勢力を強め、尊王攘夷運動は崩壊しました。己の右腕であった吉田東洋を暗殺された山内容堂は、これをきっかけに土佐勤王党弾圧を開始。武市半平太を筆頭に主立った党員は捕縛され、処罰されていきました。武市半平太自身は最後まで東洋暗殺への関与を認めませんでしたが、1865(慶応元)年に切腹を命じられ、天誅の実行犯だった岡田以蔵(おかだいぞう)も斬首刑となりました。
坂本龍馬は土佐藩・勤王党を離脱し別ルートで尊王攘夷運動を始める
坂本龍馬は吉田東洋暗殺の2週間前に土佐藩を脱藩しているので、暗殺には関与していません。土佐藩を脱藩した後の坂本龍馬は長州藩に向かっていますが、その後の足取りがはっきりせず、脱藩した年の冬には勝海舟の門下生となっています。一介の脱藩浪人にすぎない坂本龍馬が、どうやって幕臣の勝海舟に面会できたのかは定かではありませんが、誰かに紹介してもらったのでしょう。その後は福井藩に赴いて前藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に面会するなど、国事に奔走します。
坂本龍馬最大の功績、薩長同盟
土佐勤王党と袂を分かち土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、さまざまな藩を訪れ要人たちと交流を持ちました。特に坂本龍馬は尊王攘夷論の急先鋒だった長州藩を気にかけています。
八・一八の政変、池田屋事件、禁門(きんもん)の変、第一次幕長(ばくちょう)戦争と長州藩がどんどん追いつめられていく中、坂本龍馬は長州藩の助命のために行動します。勝海舟の仲介で薩摩藩の重役・西郷隆盛と会合し、薩摩藩と長州藩が手を組む提案をします。過去の戦争で対立した両藩を結びつけるため、坂本龍馬らが長崎で作った商社「亀山社中(かめやましゃちゅう)」を利用。長州藩が欲しがっていた武器を薩摩名義で購入し、薩摩藩が欲しがっていた米を長州藩が提供するという取引で、両藩を和解させました。1866(慶応2)年、薩長同盟が成立します。
坂本龍馬の想いがついに実るも京都で暗殺される
坂本龍馬はこの後、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)(吉田東洋の甥)と手を組み、容堂に「幕府に政権を返上するように訴えてほしい」と説きました。そして1867(慶応3)年10月、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上し(大政奉還)、江戸幕府が終わりを迎えます。坂本龍馬はそのわずか1カ月後京都の近江屋で暗殺され、明治時代の到来を見ることなく人生を終えました。
坂本龍馬は高知を代表する偉人となった
坂本龍馬は脱藩以後ほとんど土佐藩に戻っていないため、高知県内ではほとんど知られていない存在でした。1883(明治16)年、自由民権運動家であり小説家であった坂崎紫瀾(さかざきしらん)が、坂本龍馬の伝記『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を土陽(どよう)新聞に連載。この作品が大ヒットし、坂本龍馬の活躍が高知県内に知れ渡りました。
さらに1904(明治37)年、日露戦争開戦前夜に昭憲(しょうけん)皇后が「白袴の青年が、自分が日本を守ると宣言する夢を見た」と発言。この青年が坂本龍馬だとされ、「海軍の守り神としての龍馬」が全国的に注目されます。これには、政府や軍の要職をほぼ独占する薩長閥の存在を苦々しく思っていた、土佐藩出身の宮内大臣・田中光顕(たなかみつあき)の思惑も見え隠れしています。
坂本龍馬の人気を不動のとした小説
坂本龍馬の人気は第二次世界大戦後も衰えることはありませんでしたが、その人気を不動のものとしたのが、1962(昭和37)年に連載が始まった、司馬遼太郎(しばりょうたろう)の歴史小説『竜馬がゆく』です。平和を求める自由で明るい龍馬像は高度成長期を生きる日本の若者像にマッチし、大ブームを巻き起こしました。高知県内も同年より坂本龍馬を積極的にアピール。現在も多彩なキャンペーンを打ち出し、大いに盛り上がっています。
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・室戸岬の海洋深層水は多分野で利用可能性
・桂浜のカラフルな五色の石はどうやってできた?
・海と大地が交わる場所室戸岬で地球の営みを感じる
・早明浦ダムは「四国の命」治水・利水で4県が受益
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・着工から37年がかりで開通の住民の足、ごめん・なはり線
・3つの日本一を有するとさでん交通の路面電車
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・跳ね橋の「手結港可動橋」渡れるのは1日7時間
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・京都から土佐国へ移住した公家大名・土佐一条氏とは?
・四国全土を1代で征服、姫若子・長宗我部元親の躍進
・広大な土佐国をどう治める?一豊が築いた土佐藩の基礎
・土佐から北アメリカ大陸へ!ジョン万次郎の生涯
・幕末の土佐藩を雄藩に導いた坂本龍馬の軌跡と真実
・明治維新から間もない高知で生まれた自由民権運動
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・高知県が目指す次世代型施設園芸農業とは
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・著名漫画家を多く輩出する高知が育んだまんが文化
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・1人1人が主役になれる自由で熱いよさこい祭り
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