更新日: 2024年1月13日
土佐日記から読み解く紀貫之の帰京ルートと当時の土佐国
「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」という冒頭文で知られる『土佐日記(とさにっき)』。著者の紀貫之(きのつらゆき)は、土佐国(とさのくに)で何をしていたのでしょうか?
目次
土佐日記の著者、紀貫之が土佐へと赴いた理由
紀貫之は、赴任先である土佐国から平安京の自宅に帰るまでの様子を、『土佐日記』として記しました。この当時の土佐国とはどのような場所だったのでしょうか。平安時代の延喜式(えんぎしき)は各国を国力ごとに「大国(たいこく)」「上国(じょうこく)」「中国(ちゅうこく)」「下国(げこく)」と分類しており、土佐国は中国に分類されています。
土佐国は流刑地だった?
土佐国は律令制の中で「遠流(おんる)の地」と位置付けられてきました。延喜式では「日本の南の境界は土佐」と記されており、重罪人を流すにはちょうど良い場所と認識されたのでしょう。承久の乱で敗れた土御門(つちみかど)上皇や、浄土宗の開祖である法然上人など、土佐に遠流された人物は多くいます。鎌倉時代末期ごろまでは積極的に土佐国への遠流が行われてきましたが、室町時代に入ると流罪そのものが衰退。重罪人は隠岐(おき)や佐渡(さど)に流されるようになり、土佐国の流刑地として役割は終了しました。
紀貫之は自ら家族も帯同して土佐国へ
官位相当制(位階に応じて役職が決まる制度)では正六位下(しょうろくいのげ)が相当位であり、実際には五位クラスの官僚が赴任しています。官位の高い者の中には自分は赴任せず、代わりの者を現地に送るケースもあったようです。また左遷人事として土佐守になった例もあります。紀貫之は従(じゅ)五位下であり「栄転でもないが左遷でもない官位相当の人事」であり、家族を帯同して自ら赴いています。彼が土佐国に着任したのは、930(延長8)年・59歳の時のこと。すでに『古今和歌集』を編纂するなど歌人として活躍しており、地方官として赴任するのは初めてだったようです。
土佐守は中級~下級の貴族が任官されることが多かったため、著名人が多くありません。紀貫之は『土佐日記』を執筆したこともあり、土佐守を代表する人物として名を残しています。
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