古墳から見える歴史②:関東地方
稲荷山古墳:国宝の鉄剣が出土(埼玉県)
9基の古墳が現存する埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)。
そのひとつ、稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」は国宝に指定されています。
埼玉古墳群のなかで、最初に造営されたのが稲荷山(いなりやま)古墳(行田市)です。古墳時代後期の5世紀頃に築かれた前方後円墳で、全長は約120mと県内でもトップクラスの大きさを誇っています。
前方後円墳とはヤマト王権の支配地域でのみ見られる形式の古墳ですが、稲荷山古墳に被葬されていたのはどのような人物だったのでしょうか。それを示唆するのが、1968(昭和43)年の発掘調査で後円部分から多量の埴輪とともに出土したこの一振りの鉄剣です。
さきたま古墳公園
- 住所
- 埼玉県行田市埼玉、渡柳、佐間、堤根地内
- 交通
- JR高崎線行田駅から行田市内循環バス観光拠点循環コース左回りで15分、埼玉古墳公園前下車すぐ
- 料金
- 入園料=無料/さきたま史跡の博物館入館料=大人200円、高・大学・専門学校生100円/
八幡山古墳:関東の石舞台と呼ばれる(埼玉県)
石舞台(いしぶたい)古墳とは一般的に、奈良県明日香村(あすかむら)にある古墳を指します。埼玉県行田市には「関東の石舞台」の異名をとる古墳が存在します。埼玉古墳群から北に2㎞ほど離れた場所にある八幡山(はちまんやま)古墳です。
1934(昭和9)年、小針沼(こばりぬま)の干拓事業のために古墳の盛り土を崩した際、八幡山古墳の石室が発見されました。この横穴式石室は全長16.7mで、関東地方でも最大の規模です。「飛鳥の石舞台」に匹敵する大きさだったことから、八幡山古墳は「関東の石舞台」と呼ばれるようになりました。
八幡山古墳からの出土品でとくに注目を集めたのが、中室から発見された棺の破片(乾漆棺片(かんしつかんへん)です。これは出土例がきわめて少なく、たとえば、大王やその一族など限られた階層の墓からのみ出土するものでした。
したがって八幡山古墳に葬られた人物は、かなりの権力者であったと考えられます。
綿貫観音山古墳:すべての出土品が国宝(群馬県)
現在、群馬の大型古墳の数は全国4位で、東日本では突出しています。東日本へ勢力を広げようとしていたヤマト王権にも重要な地域と認められて連携が図られ、経済や文化の発展を遂げて東日本をリードする地域となりました。そのため、この地の豪族が多くの古墳をつくったというわけです。群馬は古墳大国であると同時に、埴輪大国でもあります。現在国宝・重要文化財に指定される埴輪の約4割は群馬県内で出土したものであり、日本一の数を誇ります。
出土品すべてが国宝に指定されたことで今注目を集めているのが「綿貫観音山古墳」。横穴式石室の規模や副葬品の華やかさ、埴輪の優れた造形など、どれも見応えがあります。とくに奇跡的に未盗掘で見つかった銅水瓶(どうすいびょう)などの豪華な副葬品は、朝鮮半島や中国大陸との強いつながりを感じさせます。
内裏塚古墳:南関東最大規模を誇る(千葉県)
千葉県には前方後円墳が数多く残っています。日本全国には5000基前後の前方後円墳が分布し、そのうち約720基が千葉県内で確認されています。全国の約14%が千葉県内にあるのですから、いかに集中しているかがわかるでしょう。そのような千葉県において、もっとも規模の大きな古墳といえば内裏塚古墳(だいりづかこふん)(富津市二間塚)です。内裏塚古墳は、古墳群最大の全長144m(後円部径は約80m)。千葉県内でもっとも大きいばかりか、南関東においても最大規模を誇ります。
舟塚山古墳:茨城県内最大の古墳(茨城県)
舟塚山古墳の全長は186m(周溝部を含めると220m)で、前方部の幅100m、高さ10m、後円部の径90m、高さ11m。茨城県内最大の前方後円墳であり、東日本では天神山(てんじんやま)古墳(群馬県太田市)に次ぐ大きさを誇ります。
古代の関東平野には、温暖化による海面上昇(縄文海進)の影響で海水が流入し、海岸線が深くまで入り込んでいました。霞ヶ浦や恋瀬川、那珂川、久慈川の水上交通の要所は、政治・経済・軍事の重要な拠点であり、強大な権力者の痕跡が多く見られます。恋瀬川と霞ヶ浦の結節点につくられた舟塚山古墳は、その典型です。
古墳から見える歴史③:中部地方
甲斐銚子塚古墳:東日本最大級の前方後円墳(山梨県)
ヤマト王権の象徴とも言われている前方後円墳の中でも、東日本最大級といわれているものが山梨県に存在しています。甲府市の「甲斐風土記(かいふどき)の丘・曽根丘陵公園」内にある甲斐銚子塚古墳は、隣接する丸山塚古墳と併せて「銚子塚古墳附丸山塚古墳(ちょうしづかこふんつけたりまるやまづかこふん)」の名で国指定の史跡となっています。4世紀頃に造られたと思われる甲斐銚子塚古墳は、全長169mの前方後円墳で、その大きさは東日本最大級です。
この古墳からは、山梨県産の水晶を用いて作られた勾玉(まがたま)も出土しています。近年の研究では古墳時代前期に東日本一円に流通する水晶製玉類の多くに山梨県産の水晶が使用されており、県内から玉類や玉の素材が各地に供給されていたことが明らかになりました。
断夫山古墳:ヤマトタケルの妻が眠る?!(愛知県)
名古屋市熱田区の熱田神宮公園内にある断夫山古墳(だんぷさんこふん)は、5世紀末から6世紀初頭にかけて造営された前方後円墳です。伝承では、断夫山古墳はミヤズヒメの墓とされています。ヤマトタケルは東征の際にミヤズヒメを妻としましたが、東征の帰途に病で没し、白鳥になって飛び去っていきました。ミヤズヒメは夫(ヤマトタケル)への思いを抱いて死んでいったことから、彼女の墓が断夫山(夫を断つ山)と呼ばれるようになったといいます。
このため断夫山古墳は、かつては熱田大宮司家が宮簀媛墓として奉仕し、戦前は熱田神宮の所属地として管理されていました。断夫山古墳は熱田神宮の神域として保護されてきた経緯から、これまで詳細な発掘調査は行われていません。
柳田布尾山古墳:貴重な大型の前方後方墳(富山県)
古墳好きにおすすめしたいのは柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)。大境洞窟がある氷見市にあり、全長は107.5mで、日本海側最大の前方後方墳です。大規模な古墳は前方後円墳であることが多く、大規模な前方後方墳というのは少ないため、全国的にも貴重な大型前方後方墳といえるでしょう。
富山湾の海上交通を掌握した人物が埋葬されたと推測されており、これだけ大きな古墳であるからには強大な勢力を誇っていたに違いありません。
森将軍塚古墳:曲がっている?前方後円墳(長野県)
善光寺平南部の千曲川両岸には大型の前方後円墳が築造されました。このうち森将軍塚古墳は、長野県では最大の前方後円墳で、千曲川の右岸、大穴山(おおあなやま)の尾根沿いに位置するため、麓から見上げるような格好になります。
一般的な前方後円墳は左右対称の形をしているものですが、森将軍塚古墳の場合、後円部分がいびつな楕円形になっています。狭い尾根上に築造され、円形にするだけのスペースを取れなかったためと推測されています。また、尾根が曲がっているので、その制約を受けて古墳全体がくの字に曲がっています。
古代の長野県においては善光寺平(長野盆地)に主要な古墳が集中しており、当地が地域政治の中心地であったと考えるのが妥当でしょう。
古墳から見える歴史④:近畿地方
百舌鳥・古市古墳群:世界遺産に登録された巨大古墳群(大阪府)
全国に数ある古墳群の中で、2019年に世界遺産に登録されたのが、百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)です。登録されたのは両古墳群を合わせて49基ですが、もともとは200以上の古墳が存在したといいます。両古墳群の大きな特徴は、日本最大クラスの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が密集していることです。古墳が造営されたのは4世紀後半から5世紀後半ごろで、ヤマト王権が国内から国外へ意識を強く持ちはじめた時代です。
百舌古墳群は「難波津(なにわつ)」と呼ばれた大阪湾に面しており、古市古墳群にも河内潟(かわちがた)という内海が広がっていました。つまり、海外から船が到着する際、まず巨大な墳丘を目の当たりにすることになり、権威を海外に示す絶好の場だったのです。
百舌鳥・古市古墳群以外の巨大古墳(大阪府)
百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間地点、松原市から羽曳野市北西部に河内大塚山古墳があります。全長約335mの前方後円墳で、その規模は全国で5位の大きさを誇ります。築造時期は6世紀の後半で、その規模の大きさからヤマト王権の大王の御陵とする説が有力です。
高槻市の今城塚古墳(いましろづかこふん)は、河内大塚山古墳より早い6世紀前半の古墳です。全長約190mの前方後円墳は宮内庁の参考地にされなかったので、発掘がかなり進んでおり、人の出入りも自由です。
さらに古い、古墳時代前期(4世紀ごろ)に築造されたと考えられているのが岸和田市の摩湯山古墳(まゆやまこふん)です。全長約200mの古墳で、府下における古墳時代前期の前方後円墳のなかでもっとも大きく、泉州地方で最古級の古墳とされてます。
箸墓古墳:日本最古の前方後円古墳(奈良県)
数多くある古墳のなかで、最古の前方後円古墳とされるのが、三輪山の北西にある纒向(まきむく)遺跡の箸墓古墳(はしはかこふん)です。『日本書紀』によると、三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされ、3世紀半ばに築造されたと考えられています。箸墓古墳は、全長約280mとそれまでにない大きさでした。『魏志倭人伝』において卑弥呼が亡くなったとされる時期と重なり、卑弥呼の墓とする説もあります。
古代政治の中心地であった奈良エリアから、古墳の移り変わりも見てみるのもおもしろいでしょう。
丹後にある「日本海三大古墳」(京都府)
丹後地方の古墳の特徴は、巨大な前方後円墳であること。このうちとくに大きな網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)(201m)、神明山古墳(しんめいやまこふん)(190m)、蛭子山古墳(えびすやまこふん)(145m)は「日本海三大古墳」と呼ばれています。
丹後地方には、日本海ルートでいち早く大陸から文化がもたらされました。丹後地方の港を利用して中国や朝鮮半島との交易を行う有力な豪族がおり、3基の巨大な古墳に埋葬されているのは、ヤマト政権と強いつながりを持った丹後の豪族だと考えられています。
五色塚古墳:明石海峡大橋を遠望する古墳(兵庫県)
兵庫県は古墳の数が日本一多く、全国の約12%を占めています。とりわけ大きな古墳が集中しているのは播磨・摂津地方です。全長194mを誇る県内最大の前方後円墳「五色塚古墳」(神戸市)は、明石海峡周辺を支配した首長の墓だとされます。
播磨・摂津地方には、このほかに大小100基を超す前方後円墳があります。密集して古墳がある地域は全国的にもめずらしい。その理由は、高度な土木技術を身につけた渡来人が定住したからだと考えられています。
古墳から見える歴史⑤:中国地方
造山古墳:全国第4位の巨大な前方後円墳(岡山県)
5世紀前半(古墳時代中期)に、造山古墳(つくりやまこふん)が築造されました。岡山県内では最大、全国では第4位の規模を誇る全長約350mの巨大な前方後円墳で、被葬者は吉備政権の大首長と推定。畿内(きない)では大王陵で用いられる「長持形石棺」が出土していることから、かなりの権力を有していたと考えられています。調査の結果、石棺に使用された石は阿蘇(あそ)の肥後(ひご)石と判明。5世紀前半の吉備国は、九州との交易ルートを持っていたのです。
古墳から見える歴史⑥:九州地方
石塚山古墳:初期の前方後円墳(福岡県)
福岡県は謎に包まれた遺跡の多い土地でもあります。今なお議論が続く金印、女王卑弥呼が君臨した邪馬台国と関係が深い伊都国(いとこく)など歴史好きにはたまらないロマンの地です。
福岡の古墳時代の始まりを告げる初期の前方後円墳に、豊前の苅田町石塚山古墳があります。ここから出た「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」は、大和王権とのつながりを示し、中・四国や近畿の窓口である豊前の特色をよく示しています。
このエリアは、古墳時代以前から歴史からたどってみるのも興味深いですね。
チブサン古墳:彩り鮮やかな装飾古墳(熊本県)
装飾古墳とは、内部の壁や石棺に浮き彫りや線刻、彩色などの装飾のある古墳のことで、4世紀末頃から7世紀頃まで造られており、全国に約700基、熊本県内では約200基があります。その中でも有名なのが、山鹿市城字西福寺にあるチブサン古墳ですが、埋葬されているのはかなり重要人物だったと考えられています。
この古墳は古墳時代後期(6世紀)頃に造られたとされる前方後円墳です。後円部の内部に割り石を積み上げてつくられた石室があり、その奥の壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれています。菊池川流域に装飾古墳が多いのは、その中でも、赤色の顔料(ベンガラ)の材料である阿蘇黄土が手に入りやすかった、阿蘇の火山灰が固まった凝灰岩が加工しやすかった、などの理由が考えられます。
発見されている装飾古墳のうち、約3割は熊本に集中しています。熊本には独自の文化圏が存在していたのでしょうか⁉
チブサン古墳
- 住所
- 熊本県山鹿市城西福寺
- 交通
- JR熊本駅から産交バス山鹿温泉行きで1時間20分、山鹿バスセンターで産交バス南関上町行きに乗り換えて6分、博物館前下車、徒歩10分
- 料金
- 大人100円、小・中・高校生50円、小学生未満無料
西都原古墳群:九州でも最大規模の古墳群(宮崎県)
一ツ瀬川(ひとつせがわ)右岸の西都原台地一帯には、南北4.2㎞、東西2.6㎞の範囲内に合計319基もの古墳が密集しています。内訳としては前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基で、3世紀末から7世紀にかけて築造されたと推測されており、日本最大級の古墳群といわれています。
このうち男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)と女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)は、1895(明治28)年に陵墓参考地に指定されました。陵墓参考地とは、古記録や伝承、墳丘の大きさや形状、出土品などを典拠に、宮内庁によって皇族の墳墓とされましたが、被葬者を特定する資料は不足している状態のもので、全国に46カ所が存在しています。
南九州の古墳:独自の墓制が見られる(鹿児島県)
カルデラの噴火により大きく地形が変化した南九州。古墳と歴史はどのように関わっているのでしょうか。
ヤマト王権(中央府)が九州まで伸長すると、古代の南九州に居住したとされる熊襲(くまそ)は、4~5世紀にかけて中央府に抵抗しました。『古事記』や『日本書紀』では、景行天皇やヤマトタケルによる熊襲討伐が行われたとされています。熊襲が姿を消し、かわって隼人が鹿児島の地に出現。中央府と結びついた首長の支配領域では、唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん:肝属(きもつき)郡東串良(ひがしくしら)町)や神領古墳群(じんりょうこふんぐん:曽於(そお)郡大崎町)のように、前方後円墳が造営されました。いっぽう、宮崎県南部から鹿児島県東部にかけての地域では、独自の墓制も見られます。それが地下式横穴墓と板石積石棺墓(いたいしづみせっかんぼ)です。
当時の豪族の勢力を古墳からうかがい知ることができます。
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