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大友皇子は壬申の乱で敗れ伊賀を経て東国へ生きのびた? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

大友皇子は壬申の乱で敗れ伊賀を経て東国へ生きのびた?

伊勢・伊賀も巻き込んだ、古代最大の戦といわれる壬申の乱。敗死したとされる大友皇子の母は、伊賀国の出身でした。大友皇子のその後を考察します。

「采女の郷」の由来となった「采女」とは?

三重県四日市市の南部に采女町(うねめちょう)があり、古くから「采女の郷」という名で知られています。ここは、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)が剣を杖にして歩いた杖衝坂(つえつきざか)があるところです。采女とは、平安時代初期までの古代に、天皇のそばに仕え、食膳の奉仕などをした下級の女官のこと。采女の発祥ははっきりしませんが、地方豪族や国の郡司以上の者は一族の娘を朝廷に差し出し、服従の意を表していたようです。

采女は、容姿端麗さが求められ、『日本書紀』などに「伊勢の国の采女」の話がよく出てくることから、三重県は美女が多かったのかもしれません。伊勢国の采女は、歌舞に長けた者が多いと評価されており、奈良時代に天皇に仕えた、伊勢国飯高郷(いいたかごう)の「飯高諸高(いいたかのもろたか)」という采女は、異例の従三位という高い位を与えられています。

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