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通天閣の初代はアジアでもっとも高く、関西随一の観光名所だった!
そんな通天閣は昭和時代に一度撤去されていて、現在の塔は戦後に再建された2代目です。
初代の通天閣は「第5回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)」 の跡地を利用した「ルナパーク」という遊園地に大阪商業会議所がパリのエッフェル塔を模した塔の建設を計画し、1912年に完成します。
儒学者の藤沢南岳(ふじさわなんがく)。「天に通じる高い建物」を意味する名を与えられた初代通天閣は、凱旋門風の土台に塔の上半分を乗せたような構造になっていました。高さは約 75mと今より30m以上低かったのですが、当時はアジアでもっとも高く、ルナパークとはロープウェイでつながれていました。大阪でもっとも早く乗客専用エレベーターをつけた、関西随一の観光名所として人気を集めました。
通天閣初代の消失とにぎわいを失った新世界
初代通天閣は、太平洋戦争中に姿を消します。1943年1月に映画館の火災が燃え移り、鎮火後に解体されて鉄材は軍事資材となりました。さらに1945年の大阪大空襲で新世界一帯も被災。かつてのにぎわいを失ってしまいます。
通天閣2代目は街の復興のシンボル!戦後の再建計画
戦争が終わると、地元有志の間で街の復興のシンボルとして通天閣の再建を求める声が上がります。それを受け1953年、地元町会役員らが中心となって「通天閣再建委員会」が発足。しかし、初代が立っていた跡地は民家が密集していて、その場に再建するのは難しく、笑い話だとして相手にしない住民もいました。
それでも再建委員会を中心とした人々の熱意もあり、計画は本格化。跡地から少し離れた場所を敷地とし、1955年に工事がはじまり、わずか1年間という突貫作業のすえ、2代目通天閣が完成します。
通天閣と新世界の現在
その後、一度はにぎわいを取り戻した新世界と通天閣ですが、キタやミナミの周辺の開発に伴い、客足が途切れてしまいます。
それでも現在は、昔ながらの風情が逆にもてはやされるようになり、若い世代や外国人観光客も多く訪れるようになっています。
復活を遂げた新世界
内国勧業博覧会の跡地は東側が天王寺公園となり、西側には新観光名所が開発されます。つけられた名前が「新世界」。初代通天閣と遊園地のルナパークは欧米風の観光地として人気を博しましたが、遊園地は11年後に閉園しました。
戦後は「あいりん地区」が近いこともあって労働者が集うようになり、また1961年に起こった「釜ヶ崎(かまがさき)暴動」で街のイメージは悪化します。そのため、しばらくは低迷していましたが、現在では昭和レトロな雰囲気が再評価され、復活を遂げています。
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