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麦島城と熊本城をもった肥後国は、なぜふたつの城が許されたのか? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月15日

麦島城と熊本城をもった肥後国は、なぜふたつの城が許されたのか?

“難治の国”と呼ばれた肥後で、着々と進められた江戸幕府による巧みな支配体制の構築。加藤清正の系図は、その過程で消されていった⁉

麦島城は一国一城令の中で例外とされた

徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開いてから12年後の1615(元和元)年、大坂夏の陣の直後、家康は諸大名に対して、「居城以外のすべての城を破却せよ」という一国一城令を発しました。このとき、大名の家臣の中で、特に幕府に対して功績があった者の子孫の居城は、例外的に廃城の対象外とされました。熊本藩の場合、八代に築かれていた麦島城(むぎしまじょう)がそうでした。

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