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肥後国衆一揆が引き起こされた直接的原因の所領問題

大友宗麟の再三の要望に応えて、秀吉自身が大坂を立ったのは1587年4月8日(天正15年3月1日)でした。そして5月2日(3月25日)には下関の赤間(山口県赤間市)で会議を開き、秀吉が西九州の筑前・肥後を経て薩摩に向かい、秀吉の異父弟である豊臣秀長は東九州の豊後・日向を経て薩摩に進軍することが決まりました。


秀吉による九州平定は、1586 年7月から同1587年4月にかけて行われました。投入された秀吉軍の兵力は20万~27万人。対する薩摩軍の兵力は2万~5万人だったとされます。

秀吉自らが率いた軍勢は連戦連勝

秀吉軍は5月5日(3月28日)に小倉城に到着、5月8日(4月1日)には岩石城(福岡県田川郡添田町添田)を攻略、5月23日(4月16日)には肥後隈本(熊本県熊本市)に、26日(19日)には肥後八代(熊本県八代市)に到着。さらに、6月1日(4月25日)には筑後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)、翌日に肥後水俣(熊本県水俣市)と進み、6月4日(4月28日)には平佐城(薩摩川内市平佐町)での戦いに勝利しました。それが薩摩の最後の抵抗でした。

島津氏が鎌倉から続く名族のためか処分は甘め

島津義久はいったん鹿児島に戻り、6月13日(5月8日)、泰平寺(薩摩川内市大小路町)に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏。その後、結果として島津は薩摩、大隈と日向の一部を安堵されることになりました。名族だからというのが理由だったとされています。また、大友氏と同様、相良氏も安堵されました。

肥後国衆一揆は佐々成政への抵抗が原因か

一方、肥後隈本は佐々成政に与えられました。しかし、肥後の支配はそれほど簡単なものではありませんでした。佐々は秀吉の指示で検地をおこなおうとしますが、それに反発する肥後北東部の国衆(地侍)が、8月13日(7月10日)に一斉蜂起したのです。

肥後国衆一揆で武士農民が一体となって抵抗

真っ先に兵を挙げたのは、菊池三家老だった隈部親永(くまべちかなが)でした。隈部親永は国衆とはいえ、6万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていましたが、佐々軍の攻撃で居城・隈府城(菊池城:熊本県菊池市)は落城。隈部親永は約1万8000人の武士農民とともに山鹿の城村城に立てこもりました。
また、和仁城(田中城:熊本県玉名郡和水町)には和仁親実(ちかざね)が1万数千人の武士農民と立てこもったほか、神尾城(大田黒城:同上)には大津山家稜が立てこもって抵抗を続けました。その事態に佐々は秀吉に援軍を依頼。秀吉が九州・四国各藩から約2万人の軍勢を送り込み、やっと事態を収拾しました。


国衆一揆の最後の砦になったのが和仁城でした。城主・和仁親実らはわずか900人の兵力で豊臣勢1万人を迎え撃ち、2ヶ月にわたる攻防を展開しました。

肥後国衆一揆の鎮圧に失敗した佐々成政、国衆ともに罰せられる

自力で肥後国衆一揆を鎮めることができなかった佐々は、謝罪のため大坂に出向きますが、秀吉は面会を拒否、成政に切腹を命じました。佐々は1588年7月7日(天正16年閏5月14日)に切腹しますが、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれています。

中世より続いた国衆達の末路

その後、秀吉は加藤清正や福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を徹底的に処分し、検地、課税額の決定を強行、肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅びました。同年には、肥後の新領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命された。

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