更新日: 2024年1月15日
肥後国衆一揆で豊臣秀吉の九州統一の功労者 佐々成政を切腹に追い込んだ
豊臣秀吉の九州統一で、九州の戦国時代は終焉を迎えました。その歴史の転換期、日本中が混乱する中で熊本ではいったい何が起きたのでしょうか?
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肥後国衆一揆が起こった原因とも言える豊臣秀吉の島津攻め
戦国時代後期、九州では大友、龍造寺、島津などの戦国大名が覇権を争うようになりますが、なかでも島津氏は、日向(ひゅうが)の伊東氏、肥後の相良氏・阿蘇氏、肥前の有馬氏・龍造寺氏などを下し、さらに豊後の大友氏に迫りました。1585(天正13)年、大友宗麟(そうりん)(大友義鎮(よししげ)は1562年に出家して宗麟と号した)は、豊臣秀吉に助けを求めます。
豊臣秀吉が島津・大友両氏に停戦を命じる
そこで秀吉は島津氏、大友氏の両方に停戦を命じました(九州停戦令)。劣勢だった大友氏はこの提案にすぐに飛びつき、停戦の意向を示しますが、島津氏は応じず、1586年8月1日(天正14年6月16日)に島津義久が軍を率いて鹿児島を出発、8月16日(7月2日)には八代に到着し、8月24日(7月10日)には勝尾城(かつおのじょう)を攻略。その後、岩屋城(福岡県太宰府市大字太宰府・大字観世音寺)、宝満山(ほうまんざん)城(福岡県太宰府市大字内山)も陥落させました。
しかし、秀吉の意向を受けて毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したことを知ると、立花城(福岡県糟屋郡新宮町立花)の攻略を諦め、豊後侵攻へと方針を転換。
島津氏は名だたる武将を蹴散らし大友氏の喉元まで
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・長宗我部信親(のぶちか)・十河存保(そごうまさやす)らの豊臣連合軍の先発隊と戦い、1587年1月20日(天正14年12月12日)には豊臣連合軍に勝利しました(戸次川の戦い)。そして府内城(大分県大分市荷揚町)を陥落させ、とうとう大友宗麟が守る臼杵城(大分県臼杵市臼杵丹生島)を包囲しました。
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